心理カウンセラーに期待される思考、信念、価値観について

  1. いまここで、まさしく幸せであること《即幸》
  2. いまここで、まさしく解脱すること《即脫》
  3. こころとは《こころの 3 拍子》
  4. 人生の目的は? 《目的 価値觀》
  5. 幸せになることを妨げる煩悩の実体は? 《煩悩構造》

0 はじめに

わたしは 1980 年から今日まで 40 年間、同事摂という集団教育プログラムを主宰してきました。プログラムの内容は正体、大願、修心、和合、作善という「人生の五大原理」を理論的に悟ることと、その理論を実践して体験することです。超宗教的なプログラムで、仏教徒のみならず、キリスト教、カソリック、円仏教などの教徒はじめ多くの聖職者が参加しているし、小学生から 80 歳を越える老人まで、3万余人が5泊6日課程を満たしてきました。この場におられる心理カウンセリング従事者のみなさまにおかれても同事摂に参加されて、多様なアイデアを得て行っていただきたく思います。

ありがたくも、カウンセラーの方々の集まりに招待され、カウンセリングに関する話をできるようになりうれしいです。

願わくは、カウンセラーの方々が多くの人々の苦痛と困難を解決してくださり、世の陽場力が高揚されますように。

カウンセリングとはカウンセラーがクライアントの問題を解決して差し上げることにより、クライアントの幸福増進を助ける過程でありましょう。このような重大な過程を担当しているカウンセラーが備えるべき人がらの条件はどのようなものだろうと考えるようになります。カウンセラーとは、世の中の人が不幸の奈落から抜け出し、幸福の丘へと越えていくのを助ける者であると考えるとき、カウンセラーとしてだれよりもまず自らが幸福1)であるべきことでしょう。そして、カウンセラーの人がらの条件となると、その0番が幸福ではないでしょうか。こうして、このたびみなさまにお話する主題として、幸福、解脱をとりあげ、幸福を支えるいくつかの理論を付け加えるつもりです。

  • 1) 狭い意味での幸福とは、願うことがかなうとき(所有されるとき)に經驗する喜びである。しかし、幸福の外延ひろくするならば、解脱(対象に対して執着するこころが手放されるときに、経験されるとわわれのない自由感)をも含む。

1. 今この瞬間にまさに幸せを享受しているのか?《即幸》

わたしは心底、世の中の全ての存在が幸せであるよう願っています。幸せとは「いい感じ」です。喜びであり、気分がいいことであります。ハート、こころがいいことを幸せとするでしょう。感じというのはおのずから存在できません。常に、何かの条件により表れ出ます。幸せという感じは、願い事を成就し、所有するときに起こるものでしょう。正確な表現としては、願い事が成就し、所有できたと考えるときに随伴する感じです。ここのところで、一つの認識、一つの気づきがあるべきです。未来に成される所有、成就もありますが、すでに所有しており、成就しているものがあふれているという事実です。同事摂ではすでにあるものを既存とし、すでに成し遂げられているものを既成、未来にもたらされる成就は未成とします。幸せを論じるにあたってはとても重要な概念です。

既存 ── 既成 ── 未成

もう一度言いますと、すでにあふれるほどの既存、既成の所有(成就)の中にあるので、すでにあふれる幸せの中にあるということです。この認識が納得できるにつれ幸せが完成されるのです。「ない」という思いは憂鬱を呼び込み、「ある」という思いは豊穣感、すなわち幸せを呼び込むのです。

不幸とか幸福、解脱を論じるにあたっては、最優先で「幸不幸三段階法則」を理解するのがいいです。

不幸、幸福、解脱とはおのずと存在するのではなく、常に何かとの関係状況において照らし出される「感じ」の現象であると述べました。その関係状態を探ってみると3つの段階に整理できます。

幸不幸三段階法則

自分の意識が対象との関係状況において

  1. 否定的に考えると否定的な感じ(不幸)が経験され
  2. 肯定的に考えると肯定的な感じ(幸福)が経験され
  3. 超越的に考えるととらわれのない感じ(解脱)が経験される

この 《1》、《2》、《3》 を幸不幸三段階法則とします。不幸になりたいなら否定的な考えをすればよく、幸せになりたいならば肯定的な考えをすればよく、解脱を望むなら肯否定の考えを止揚すればよい。仏教を中道敎ともいうが、中道とはまさに肯否定の止揚を意味します。

今の主題は「幸福」です。三段階法則中の第 2 段階です。このメッセージに触れているみなさんは、今、まさに幸せを享受されていますか。教師や、聖職者、カウンセラーならば、また、ある程度修行した方ならば、この問いに自信満々に「そのとおりだ」と応えなければならないでしょう。今、この場でまさにまったくの幸福にいつづけることができる秘訣は何でしょうか。

次の 3 つを確かにすればいいのです。

  1. すでにあふれるほどの幸福にあるということを悟る(理解する。認識する。)
  2. 上の 《1》 を悟ったとしても、認識圏または潜在意識圏、無意識圏でいろいろの悟りに応えることができない否定的考えと否定的情緒を許容していることを自覚する。
  3. 上の 《2》 が現実とするなら、どうすればいいのか。《1》 に戻るのです。悟り 《1》 を反復観行することです。すなわち、豊穣目録、すなわち、既存と既成を確認する目録を作り、すでにあふれる所有、あふれる幸福の内にあることを瞑想観行することです。豊穣目録はいったん、既存のものたち、既成のものたちです。何回観行しなければならないでしょうか。多多益善です。

幸福を得るために次のような寸鉄的言葉を思惟し、吟味してみると大いに助けとなるでしょう。

  • 幸福とは求めるうものを所有、成就するときに経験される「いい感じ」(喜び、いい気分、good feeling)であり、解脱とは執着していたものを手放すときに経験されるさっぱりとした感じだ。幸福であれ、解脱であれ、good feelingという点では同じだ。
  • 幸福は準備する幸福ではなく、ただちにいま享受する幸福であるべきだ。もちろん、準備する幸福が重要ではないということではない。
  • 世の人をとりあえず2種類に分ける。今ここで、自身の窮乏に注目している人と、自身の豊穣に注目している人だ。もう少し正確に表現するならば、0.01%圏の人を除いてほとんどすべての人がいったん、程度の違いがあるにしても窮乏注目型からきっぱりと自由になることができずいるように思う。「いま、この瞬間、まったく幸福なのか」と畳み掛けて聞くならば、窮乏に注目し、窮乏感を感じている程度に比例して、「わたしはXXのせいで幸福になれないんだ-」としているはずです。窮乏注目型の人はパターンとしてこのような窮乏型や憂鬱型に縛られています。

このとき、人ならば当然そうあらざるを得ないだろうと味方するかも知れない。しかし、それは違う。窮乏状態だという事実があるなら、それに相応する行動があるのみ、窮乏感に打ちひしがれるできごとではない。金剛経を知る人ならば應無所住而生其心という生き方の指針にしたがうことでしょう。窮乏型の人ならば次の一つか二つの寸鉄に光を得ることでしょう。「それなりの哲学」や「半コップサイダーの原理」である。どのような窮乏状態、不幸状態にあろうと、視線をすでにある豊穣側に回せさえすれば、それなりに OK な状況であり、「コップ半分」もある OK 状況であるのだ。それなりの哲学の態度は絶対幸福という頂上に向かう道程において緩衝地帯になるのである。

  • 享受し前進する。しかめっ面で歩いていくのと、微笑を浮かべて歩いていくのとの違いから、生き方の重大な原理を一つを得るべきだ。切なさや名残惜しさを噛み締めながら職場に出かける人と、すでに持っている豊穣(所有、成就)を確認し、それを享受しながら職場に出かける人が原理的次元において差異があるということをはっきりと認識すること。それ自体が生き方の一つの知恵である。
  • 豊穣目録を作成し、吟味してシェアする。豊穣は思えば思うほど自分自身を嬉しく(幸福に)する既存、既成のものごとだ。同事摂では魂 3 千項目、体 3 千項目、経験 3 千項目を基本豊穣目録として整理する。自分自身がすでに持っており、すでに成し遂げたことを目録にして整理し、感じてみて、周辺の人にシェアするのである。
  • この瞬間、考えるのは、この瞬間の「わたし」である。「わたしはブサイクだ」と、この瞬間考えると、わたしはぶさいくだ。豊穣を考えると、わたしは豊穣だ。豊穣を考える回数が多くなると、どんな現象が起こるだろうか。回数に比例して豊穣な人がらになる。
  • 原理が大家を生み出すとしました。カウンセリングの大家になるにはカウンセリングの原理をつかまなければならない。幸福の大家になるには幸福の原理をつかまなければならない。
  • 今、ここでまさしく幸福を享受するには「すでにあふれる所有、あふれる幸福の内にある」ということを悟らなければならない。この悟りは知足、感謝、肯定、豐饒に目覚めることだ。知足瞑想、感謝瞑想、肯定瞑想、豐饒瞑想は同じ意味の異なる表現である。
  • 名カウンセラーになるには、いま、ここで、おのずから幸福に満ちあふれなければならない。今、ここで、まさに自分自身を省みよう。幸福があふれているか。幸福があふれていないならば、幸福があふれないようにする思考があるからだ。幸福であるならば幸福であるよう思考しているからだ。常に、静かに探ってみよう。徹底的にそのようであることを認識することである。好物の半コップのサイダーをして、「半分しかない」と考えれば気分がよくなく、「半分もある」と考えると気分がいい。
  • 一切唯心造という華嚴經の言葉がある。すべての経験は思考が決定するという意味だ。今、ここで、まさしく幸福を経験するには、幸福になるべく思考すればよい。
  • 人は大部分、-+#の原理(マイナス、プラス、二重プラスの原理:幸不幸三段階原理)で世の中を経験するようになっている。数え切れない種類のアイテムがなびく世の中は、わたしたちに 3 つの類型として経験される。-、+、# である。必ずマイナス(否定)に、プラス(肯定)に、二重プラス(超越)に経験されるということである。「否定的に考えうこと、肯定的に考えること、超越的に考えること」に相応する経験である。否定的に考えると、気分が悪い(ふゆかい、不幸)を経験し、肯定的に考えると、気分がいい(ゆかい、幸福)を経験し、超越的に考えると、快不快ではない超然とした感じを経験する。不幸になりたいなら否定的に考えればよく、幸福になりたいなら肯定的に考えればよく、解脱を経験したいなら両辺(真偽、善悪、美醜)を手放せばよい。ところで、真偽、善悪、美醜は人意識の外に実体として存在するものではなく、人が主観的に付与するものである。
  • 不幸な者は「ない」ということに注目し、幸福なものは「ある」ということに注目する。(世に流布されている寸鉄)
  • 今、心が澄んで明るいと現在の幸福であり、過去の心が浄化され、未来の人生に澄んで明るいことを引き寄せる。したがって、今、ここに、まさに肯定的考えをすると肯定的感じを経験する。
  • 誰しもすでにある「既存」、すでに成し遂げられている「既成」により、あふる成就、あふれる所有の内にいる。既存既成に注目することなく、未成(まだ成し遂げられていないこと、未来に成し遂げること)に執着するのは人生についての無知であり、幸福についての放棄である。今まさに窮乏に注目する意識の習慣から抜け出し、豊穣に注目し、豊穣を享受する生き方に転換しよう。窮乏への注目は現在の不幸であり、過去に堆積してきた挫折の恨みに油を注ぐことであり、未来の窮乏を呼び込むものだ。とにかく、既存既成(すでにあり、すでに成し遂げたもの)に目をやるのが豊穣に目をやり、豊穣に注目集中し、豊穣を享受することだ。
  • 幸福公式:幸福は所有に比例し、欲求に反比例する。幸福量を増進するには所有を最大化するとよく、欲求を最小化するとよい。所有最大化が与し易いことでないだろうから、欲求量の最小化が賢明なやり方だ。欲求の最小化は解脱に相応する。

幸福公式:

所有
幸福 = ━━━━━
欲求
  • 欲求には必要の欲求から執着の欲求まで、たくさんの段階がある。欲求の水位を 1~100段階に分けるとするならば、30段まではすべて人の幸福のために必要な善なる欲求である。30段以上に登る欲求はだんだん利己的で、執着的な欲求で、悪なる欲求である。80段以上の欲求は不必要な執着的欲求で、自分自身を壊し、隣人を蹂躙する欲求である。

2. 今ここで、まさしく解脱を享受しているか。 《即脱》

解脱を享受するには解脱の概念を理解し、それを生活として体験する必要があります。解脱とは何なのかを論じるには、原始仏教の観点から、大乗仏教の観点から、さらには各宗派の観点で異なる定義を下すことができるというのは当然です。龍陀の観点は、禅仏教に基づいた観点であり、[とらわれるもののない自由感]を解脱であるとし、解脱とは解脱感のことを意味します。したがって、ここで解脱を享受しているのかという質問を受けるならば、とらわれるもののない自由、とらわれるもののない解脱感を享受しながら生きているのかをみて答えてくださるといいです。人生においてとらわれるもののない自由がいかに重要であるかを認識していますか。さらには、本当にとらわれるもののない自由を生きたいという気持ちがありますか。この質問に対してとらわれるものない自由に関心がないという答えが出てきたとするならば、そのような人は仏教式で言うところの無縁衆生 (縁がない人) です。今ここの幸福解脱ではなく、なにかの欲求不満に知らず知らずに憂鬱の沼に陥ち込んでいる人がいくらでもいます。もちろん、理解できるところです。欲しいことを達成しようとすることをやめろということがありません。それは成し遂げようとするにはするが、いま幸福解脱しながらやっていくといいということです。欲しいものをよく成し遂げるためにも、今ここで、ただちに幸福でなければならないという自覚が人生の態度になっているかみてください。さあ、重ねてたずねます。ふと自分を振り返って、とらわれるもののない、さっと開けた自由な感じで生きていますか。

【不幸がどうの、幸福がどうの、解脱がどうのと話をする場であるならば、幸不幸三段階法則について深く吟味しなければならない] とした。人生とは対象(色聲香味觸法)と出会う過程です。その対象を[否定的に考えることができるし、肯定的にも考えることができ、肯否定を超えた超越的にも考えることができるということ]に深く注目しなければなりません。なぜなら、その三段階が幸不幸を議論する拠点であるからです。幸福を議論するには、有為法の幸福と無為法 (頓法)の幸福を区別するのがいいです。一般的に、幸福というと言うときは有為法の幸福を指し、解脱について言うときは無為法 (頓法)の幸福を指します。解脱を享受しているかと問うときは無為法の幸福を経験しているか尋ねています。

禅仏教は無為法よりは頓法という言葉を多く使っているようです。無為という言葉は、道教で初めて書かれたものであり、頓法という言葉は、禅仏教で最初に書かれたものです。なにはともあれ、無為法と頓法は表現が違うだけで意味は同じです。禅を代表する巨匠である六祖慧能大師は禅仏教のとらわれるもののない境地を悟られてから、[唯傳頓法]という旗幟をうち立てました。ひたすら、頓法だけを伝えたかったのでした。そういうわけかどうか、わたしは頓法という言葉の方を好みます。

概念の整理が長くなってしまいました。推測されたでしょうが、完全な幸福を享受するには、[すでにあふれる所有、あふれる幸福の中にある]ことを悟らなければならように、完全な解脱を味わうためには、既に解脱の内にあるという理知、すなわち、[頓法 (無為法)]を悟らなければなりません。わたしたちの共同体では、準備された者であれば、5 分ほどの時間で頓法を悟ることができると言っています。今すぐ、既に解脱の内にあるという理知 (事実)を悟ってしまいましょう。頓法とは、幸不幸三段階法則の第 3 段階の悟りの端緒となる [超越的な思考体系] のことをいいます。この瞬間、あなたが準備された者であれば、5 分以内に解脱を体験することができるでしょう。

幸福
有爲法の幸福 ─ 幸福
無爲法の幸福 ─ 解脫

煩悩構造論で理解されたでしょうが、世の中の人全般は意識がもどるやいなやすぐに何かを概念化します。わたし、あなた、彼氏、彼女、それ、目、耳、腕、足、ボールペン、本、リンゴ、ナシ、善、悪、美、醜など。天下は縁起の世界なのに、開かれた縁起の世界(縁起世上)に背を向けて、閉じた実体の世界に墜落します。概念は執着の始まりであり、執着そのものです。 《わたし》と規定しながら《わたし》に執着し、《あなた》と規定しながら《あなた》に執着する心理現象を当然のごとくみなしながら、《わたし》の業、「君」の業を育てていきます。善と規定して、その善とするものにこだわり、悪と規定して、その悪とすることにこだわっています。美と規定し、醜と規定し、眞と規定し、僞と規定し、大と、小と、東と、西と、天使と、悪魔と、空と、海と、金と、糞と規定し、それらに執着します。この規定、この執着がどれほど間違ったことかに気ずかず、あまりにも当たり前のように思ってとらわれています。至っては地獄と戦争の沼に落ちてしまいます。概念化は生活の便宜上、絶対にを必要です。したがって、概念化はするものの執着に落ちないように目を覚ましている必要があります。

不思善不思惡正與麽時那個是明上佐本來面目《善も悪も考えないでください。そのとき、あなた (僧侶) の真の姿は何ですか》 慧能禅師が悟った後、師兄である惠明僧侶に投げかけた問道です。師匠の衣鉢がぼうぼう頭の盧行者に伝授されたことを知った恵明僧侶は、その衣鉢を奪い取ろうと何十里を追いかけ盧行者を襲いました。そのような状況で、盧行者(慧能禅師)の法のカリスマに圧倒された恵明僧侶は「わたしに重要なのは衣鉢ではなく、法 (真理)でございます。法をお説きください」と膝をついてしまいます。そのとき、盧行者(盧行者)は恵明僧侶に、上記の話頭を投げます。その質問、その問道、その話頭が投げられるや、恵明は 5 分とたたない間に悟ります。この悟りは誰でも少し考えてみると、すべてがすることができることです。金剛經に 《AはAではなく、便宜上の名前がAであるだけだ」という文章が20回以上現われています。みなさまのうち、準備のできている方は、今ごろ悟りと解脱の笑顔でおられます。 5分思索(思惟、考え)で解決できることを、10年、20年参禅しなければならないと信じていることが、文化的にまでこり固められている諸靈性村に、残念至極です。糞は人には汚れの対象だが、犬にはおいしそうなご飯です。人と犬はさておき、糞自体は何ですか。神聖な something ではありませんか。元暁が唐に留学する途中で骸骨の水を飲んでは、その道を帰郷してしまったのは、まさにそのsomethingを點頭したからです。皆さんも今すぐ両辺をおろしてみてください。両辺がおろされるときに、まさにとらわれるもののない自由感が感じられるでしょう。すべての存在を、是非いを超えたsomethingとして觀照しながら、解脱を享受してくださるようお願いします。未盡の方は、龍陀關をノックしてください。

3. 人生の目的は何だろうか?

ご了承ください。少しでも思索の時間を持つように()の内容を脚注にまとめました。問道六章は同事摂修練早々に重要なものとして取り扱うトピックです。

問道六章

  1. 世の中で一番貴重なものは ( )3) である。
  2. 生き方を決定する核心要因は ( )4) である。
  3. 人生の目的は ( )5) である。
  4. 幸福とは ( )6) である。
  5. 幸福の主体は ( )7) である。
  6. 人生の究極の目的は ( )8) である。
  • 人生を決定することが価値観(信念、思考方式、考え)であるならば、目的の価値観(目的価値觀)の定立が一番重要である。
  • [良い感じ]、すなわち幸福が人生と歴史とすべての文化文明の目的である。
  • 感じに着目できないと、人生は SHOULD、MUST に縛られる。わたしは同事摂という修練プログラムから多くの恵みを受けた。その恵みの中で最高のものは、感じに着目することだといつも思っている。感じを知らずに生きていた半生は SHOULD と MUST に縛られた殺伐として人生だった。
  • 人生の究極の目的は、わたしたちのすべての幸福である。すなわち、無限の宇宙にある有形無形、有情無情すべての存在の幸福解脱と澄んだ明るい相生気運である。金剛経正宗分で説かれている所有一切衆生之類若卵生若胎生若濕生若化生若有色若無色若有想若無想若非有想非無想我皆令入無餘涅槃而滅度之 《宇宙に存在するすべての衆生、すなわち卵生まれたもの、胎で生まれたもの、湿で生まれたもの、化で生まれたもの、色があるもの、色がないもの、考えがあるもの、考えがないもの、考えがあったりなかったりするもの(九類衆生)をあまねくすべての済度し、ニルヴァーナに導こうと願え」という至って厳しい言葉を、思い起こしてみるのもいい。
  • 2) 問道とは、心理を問うということである。唐宋八大家のひとりである韓愈が、師が弟子にすべき3つの務めがあるとし、問道、伝法、解惑をあげた。
  • 3) 生きること
  • 4) 価値観、信念体系、思考体系
  • 5) 幸福
  • 6) いい感じ、いい気分、GOOD FEELING
  • 7) 私たち > 私
  • 8) 私たちすべての 幸福、無限 宇宙における有形無形、有情無情、すべての存在の幸福解脫と明澄な相生気運

4. 心というのはどのようになっているか

カウンセラーならば、心についての理解体系が何らかの形で確立されているの良いでしょう。わたしは一生心をテーマにし、心に対して理解し扱って分かち合いながら生きてきました。その結果、[心の三拍子]という最終的な心学を整理するにまでになりました。おそらくカウンセラー、あるいは修道者ならば、この心の 3 拍子が心の旅のコンパスになってくれると信じています。

心の三拍子

  1. こころは A9) と B10) で構成されている。
  2. A は目的機能で、B は手段機能である。
  3. もって、感じがいいように考えなければならない。
(図解: イ=B 頭のこころ/外的こころ, ロ=A 胸のこころ/内的こころ)

心は[感じと考え]、[考えと感じ]がすべてであるとわかると、心の勉強にどれほどたすけになるかを知るようになるでしょう。感じは胸の心であり内の心であり、考えは頭の心であり、表の心です。修道者やカウンセラーならば上記の図式が示す心についての理解を基本的に備えているべきでしょう。そうなれば、幸福解脫という感じのために考えを正しくすることがいかに重要であるかということを認識することにより、うちしおれていた知性軸は、革命的に活力を得ることができるでしょう。

次に、いくつかのためになる言葉を考えてみると、《考え》が人生のすべてではないとしても、生活の隅々を考えが支配しているということを知るようになるでしょう。

  • 低い水準の考えは地獄と争いを呼ぶが、より高い水準の考えは幸福という感じを経験させてくれ、最高水準の考えは解脱と大慈大悲という感じを起こしてくれる。
  • すでにあふれる所有(成就)の内にいると思うとあふれる幸福を経験する。
  • 多くの修道界では、考えてることを心の勉強において禁忌事項として取り扱う。莫存知解、不立文字を家風化までしている。質が浅い考えを控えるというのは当然正しいが、考え自体を禁ずるのは悪弊は極めで不適切である。
  • 八万大蔵経のすべてが思考体系であり、バイブルはすべて思考体系であり、四書三經が思考体系であり、天下の山のような人文学、自然科学の書籍がすべて思考体系である。フロイトからロジャースまでのすべてのカウンセリング書籍が思考体系であり、音楽、美術、体育などの理論書籍がすべて思考体系である。釈迦牟尼の緣起法が考え(思惟、思索)を介して得た思考体系であり、四聖諦、十二緣起、八正道がすべて考えであり、無常、高苦、無我などの解脱手段がすべて思考体系である。このすべての思考体系が幸福になるための手段として機能するのである。
  • 考えを良くしなければならないということも考えであり、考えをしないようにしなければならないというのも考えである。意識の究極の境地では、感じや考えをすべて切り捨てなければならないとすることも考えである。これはする、それはしない式の各種行動誘発の当為も、すべて考えである。一言以蔽之して、すべての感覺認知過程には、それに相応する感じが起こるようになっている。感じがつまるところ収束先なので、感じがよいように感覚し、認知(考え)しなければならないということも考えである。
  • 上記の幸福論でも説明したように、幸福を決定するものは、最終的に考えであることがわかる。否定的に考えると不幸になり、肯定的に考えると幸福になる。[半カップサイダーの原理]は、人類救済論の一つである。半カップしかないと思っているのと、半カップもあると思うこの違いをもって、人類救済論を語ると冷笑的に聞こえるかもしれないがくことができるが、これは事実である。息子が数学はよくできるのに英語はできないときに「わたしの息子は、数学はよくするのに英語は間違っている」と思っていると、「わたしの息子は、英語はちょっとできない方だが、数学はできるだ」と思っていることの違いで、なんらかの光を見ることができないとしたら、残念なことだ。
  • 9) 感じ
  • 10) 考え

5. 煩悩構造論

カウンセラーは最優先として自分の心が幸せでなければならない。心の幸せを妨げる障害はあれこれ多いが、なんといっても生きてきながら、自分の心の中に積み重ねてきた煩悩である。すなわち貪瞋痴三毒である。この煩悩についてよく理解し、よく浄化することが求められる。

まず、煩悩がどのように発生し、熟成され、こり固まってしまうのかを理解してみて、次は煩悩の浄化を具体的にどのようにこなすかを理解してみよう。

煩悩の構造

  • 槪念以前 (無心) -> 太虛太初 -> 実体思考 -> 価値思考 -> 欲求 -> 挫折 / 成就 -> 忿怒 -> 貪瞋痴 (三毒)

《1》 煩悩構造論

人生が幸福論であるはず、幸福論の次元で考えてみても、修心をするには、心の中で煩悩がどのように作られてどのような構造で存在するかを知っている方がいい。ここで紹介する煩悩構造は、仏教でいう十二縁起の別の版である。十二緣起は、衆生(人)がどのような経路を踏まえながら、痛みを伴う三世を輪廻するのかを 12 段階に分けて説明している。その立ち上がりが無明である。無名とは明るくない、すなわち愚かである。おろかとはどういうことか。事実のままに見れないことが愚かであり、理致を知らないのが愚かである。つまり、人生の主体であるわたし(自我)と呼ばれるものや、わたしの対象である色聲香味觸法などのすべてのものが緣起的存在であり、無我であり、非我であり、空であり、非実体であり、無念無相無住であり、無有主客であり、無有定法であり、中道であるのに、それらが実体として存在すると思ってしまうのが原始的な愚かさ、すなわち無明である。馬鳴大師は大乗起信論で無明を端的に定義して、主客意識 (わたしあるいはあなたという思考)であるとした。 《煩悩構造》は、十二縁起の別の版としたが、このように整理した理由は、煩悩を明瞭簡単に理解させるためである。煩悩の構造は簡単に 《ある - いい - たい - くそっ》 というふうに考えるとよい。ありもしないことを何々だと名前を付けながら《ある》とし、さらには、そのままあるものを 《いい》 あるいは 《悪い》 としてしまうのが[愚か(癡)]であり、持っていないそれを欲しいので欲求(貪)であり、欲求したようにうまくいかないので「くそっ」と怒り(瞋)が起こる。それがまさに人間一般の貪瞋癡三毒である。

《2》 概念以前

煩悩構造を論議する出発点は、概念以前である。概念とは国語辞典に出てくるすべての単語である。すべての人が世界を認識する方法の基礎が概念である。人が考えて言うことは、すべての概念を介してなりたちます。目の前のだれかさんを父、母、兄、もしくは弟と概念化することにより、生活の利便性もを高める。しかし、この概念化が苦痛と争いを呼びこんでいる。

概念以前とは何でしょうか。なんらかの存在に概念を与える以前の状態である。それは太虛であり、太初であり、イブが善悪知るの木を取って食べる前の世界であり、無心であり、物自体であり、無念無相無住であり、有定法であり、自性であり、如如であり、如来であり、実像であり、無為であり、無位である。人の意識は鉛筆という概念を選択することにより、無為法はもちろん、他のすべての属性を殺し、「鉛筆」という概念に固着されることにより硬化過程に入る。たちまちに 《分別 - 是非 - 執着》 である。分別是非執着の結果、人間は苦しみと争いの奈落に落ちる。概念化が苦痛の元祖ということに首肯することは、大きな悟りの一つである。仏教式で言えば苦聖諦と集聖諦の悟りである。これ地獄である概念から離れ、概念以前に戻らなければならないという当為感を感じさせている。概念以前に戻ることが悟りであり、解脱であり、救いである。 「鉛筆」という概念から「鉛筆以前」に戻ることが救いだ。この論旨が首肯されるならば、これは解脱と救いの瑞光がsさして来ていることを意味する。

それでは、概念以前とは何だろう。わたしたちは、概念以前をどのよう把持すべきか。すなわち、「鉛筆」という概念、それ以前の、その存在自体は何だろうか。答えは簡単である。 「鉛筆」ではなく、「鉛筆」に至る前の「それ自体」である。結論から言えば、そのいかなるものも《それ自体》(実相:Ding an sich)は、そのどのようにも規定されることがない無有定法でああるので、無為の風光により明らかになり、人の解脱を決定づけてくれる。凡夫は《鉛筆》だと概念化し、その《鉛筆》が《鉛筆自体》と信じる。そのような人は、西洋哲学者たちの言葉を借りれば、素朴実在論者である。ドイツに留学して 12 年間カントの著書『純粋理性批判』を研究して博士になられた筆者の哲学の師の言葉が一生記憶によみがえる。それは「素朴実在論圏に住んでいる人は、虫と大差がない」と言われたのです。そしゃくすればするほど一理ある言葉であるということを、なんども感じてきたものである。いったん概念以前に戻ることが救いであり、解脱であるということを重ねて耳打ちしておく。概念以前を、解脱を、ニルバーナを経験しなければならないだろう!

《3》 実体思考

《概念以前》から、《概念》への最初の墜落を実体思考という。すなわち、名前を付ける心理過程をいう。例:わたしは、あなたは、彼は、彼女、机、本、椅子、人、動物、山、空、花、レンギョウの花、木、白樺、哲学、科学、宗教、神、などなど...国語辞典のすべて単語、すべての文章が実体思考である。なぜ名前を付けるか。そういったものが人の生活の中でなんらかの意味、なんらかの価値があるので、人びとの間でそれらについて円滑な意思疎通のために便宜上名前を付けるだ。のどが渇いた父親が娘に「おーい、水一杯くれるかい?」と言う。父と娘の間に《水》、《カップ》という概念が約束されていない場合、娘が父親に水を持っていく行為は、簡単に期待できないだろう。したがって、概念自体が大きく間違っているとは言えず、現実的に必要な利便性の便宜物である。利便性のために作られた概念が人の足を引っ張るのである。金剛経式の表現では、「カップ即非カップ是名カップ:カップはカップではなく、便宜上カップという》である。便宜上付けられた名前だから、呼んで使っては、再び置けばよいとされる。ところが置くことができず、《分別 - 是非 - 執着》 するので、苦痛と争いが続くほかない。

《4》 価値思考

その単純なような《概念》は、同時に価値性を前提とする。目前に置かれた事物を「鉛筆」という実体として規定するときは、すでになんらかの意味、なんらかの価値があり、そのように概念化を、ただちに《実体視》をするのである。ところが実体視(実体思考と価値視(価値思考)は、コインの両面のように互いに同時的に前提される。なにかの物事に価値付与をすればするほど、その物事に対する引力または斥力が発生する。肯定価値は取り込もうとし、否定価値は排斥しようとする。その《引力 - 斥力》の度合いだけ緊張であり、ストレスであり、苦痛であり、争いである。同事摂を勉強するところでは、実体思考や価値思考体系を正すために非我(無我)瞑想を勧めている。

《5》 欲求

欲求とはひとまず Needs を前提とすることするが、その Needs の周辺に形成される Desire が欲求の本質である。さらに、欲求は未熟な心理(貪瞋痴)全体を網羅する概念である。すなわち、欲求の量が多いほど幸せの量が縮むという言葉は、未成熟がひどいほど、不幸になるしかないという意味である。したがって、したがって欲求最小化指向という単に「欲求」だけでなく、心の中のすべての未成熟心理(念体)の最小化を目指すのである。すなわち、欲求は別の図式に表した煩悩構造と同じ概念である。煩悩の構造を簡略にまとめた場合、[ある - いい - たい - くそっ - 不満思考]である。

欲求の特殊性:複雑な煩悩構造上の欲求という特殊性を持つ。天下の平和を壊す最も直接的な要因は、欲求(執着)心理である。つまり、これひとつ解決してしまえば、平和 99 %を達成してしまうのだ。したがって、未成熟の代表的概念として欲求を取り上げるものである。

価値思考に続いて、欲求という《~したい》心が起こる。欲求の対象はとても多い。衣食住、健康、お金、権力、名声、愛、認定、知識、勉強、才能、芸能、学問、事業、様々な技術、旅行、購入などなど。まさに無数のNeedsある。人間にとって欲望は不可避であり、当然である。しかし、欲求には自然、緊張エネルギーが漂う。その緊張エネルギーの強さがある線を超えると、ストレスを受けることになる。欲求と執着は同じ質の心理現象だが、欲求にストレスが立ちこめることを執着という。つまり、ストレスがある分の執着である。ここで欲求とは、最小限以上の執着が前提された概念である。 【執着から解脱するために《死の瞑想》をする。]

《6》 憤怒

欲求(~たい)は実現されるといいが、思い通りにうまく行かない。 100人が争う。誰もが 1 等になりたいが、99 人は落ちる。心が傷つく(憤怒)。すべての欲求にはほとんど怒りが続く。たとえ、欲求が実現するとしても、その実現過程はこの上ない緊張と葛藤であり、実現の喜びはしばらくするだけで、また、すぐに別の欲求のステージに登ってしまうので、ただちに緊張 - 葛藤 - 憤怒が起こる。憤怒は、過去の怒りが浄化されないまま抑圧されたものがあり、現在起こっているものもあって、外に表出されている怒りもあり、外に表現する怒りもある。怒りに相当する一つか二つの信念体系を持つもいい。 「感情があるときに表現しない。」「怒り起こる状況などない。ただどのように考え、どのように行動するのかがあるだけだ。」というのと同じものである。 [怒りを浄化するために《ナジサ瞑想》をする。]

《7》 不満思考(不知足思考)

数限りなく繰り返される 《欲望→怒り》 の心理過程で必然的に派生した信念体系の一つは、「わたしは満足していない。」という《不満思考》である。この不満思考は幸せの99%を左右するので、幸福論における深く注目すべきもう一つの特殊な状況である。人が不幸な瞬間にはいつも、その不幸の下に不満思考が間違いなく位置している。もし不満思考だけ完全に清算してしまったら不幸は99.99%消えてしまう。不満思考は、他の表現で不知足思考(満足を知らない思考)である。すぐに不満思考を満足思考《知足(知足)思考》に切り替えるだけで、幸せの99.99%が解決される意味である。幸せの99.99%を決定することが不満思考余りを求める点で不満思考は特殊性を帯びる。だから幸福論で知足という徳目は特筆して注目しているバイでもある。仏教の重大経典である遺敎經や法句経などには願う知足(少慾知足)が力をこめて強調されている。知足!いくら強調してもあふれない徳目である。簡単に煩悩の構造を整理し説明した。図表を見れば分かるだろうが煩悩構造を仏教の《貪瞋癡(三毒)》にまとめた場合、実体思考、価値思考、苦情思考は、思考を間違っているのだから癡、すなわち愚かソクウムであり、欲求と怒りは貪となった瞋であるはずである。本当になった幸せ解脱(幸福解脫)を希望する心の勉強であるならば、必ずこの煩悩構造への深い洞察が必要である。 [苦情思考から抜け出し満足できる心理状態になるためには、《知足(感謝)瞑想》が極めて良い手段である。]

6. おわりに

幸福解脫をテーマにして...

(以降省略)