第 4 章 : 主波羅蜜 (頓忘)
01. 頓忘三観
02. 頓忘三観と無限マントラ
03. 意識の展開過程 (実習)
04. 頓忘断想
05. ScalarとVector
06. 頓忘問道
07. 捨受と覚受
08. 触受構造
09. 頓忘六位
10. 頓忘の仏教史的位置
11. 有為無為シーソーゲーム (Seesaw game)
01. 頓忘三観
( 1 ) 頓忘瞑想案内に入る前に 留意すべき 事項
- 言語の不完全性 : 意味 ( 意味と か 感じ ) を伝達する手段である言語は、宿命的に不完全で ある 。言語は参考 にしつつ、 意味を とらえる 。指を方便に月を見る。
-
同事摂教育課程の3段階
同事摂一般課程では、人生をどのように生きるか ということに 対 する 価値観を定立する。
同事摂中級課程では、4大助波羅蜜を通して幸福解脱を 体 験する。
同事摂高級課程で は、 頓忘という主波羅蜜を通して解脱を 体 験する。 - 準備 できている 人
- 動機
- 新しい 分野 (あるいは 複數專攻)
- 頓忘価値優先
- マスター信頼
- 人文学的素養
- 最小限の人文学 ( 問道 六章 、 十二 縁起、 触 受構造、 煩悩構造 、解悟解脱 5であり、不可不幸 5 段階 など)
( 2 ) 頓忘とは
- 概念以前, 主客以前, とらわれるもののない純粋意識 (仏性、自性)。
- 純粋意識 状態である 。
- vectorエネルギーが 0 の意識状態である。
- 我空法空を前提した [オーム + だな] (以下 [オムナ] ) である 。
- 我空法空と現実受容を前提した [オムナ] である 。
- 根境識三事和合 ( 触) であるが 境は 無為法境で あり 、 受は 覚受 の意識状態である 。
- 頓忘と は { ある-いい-たい- クソッ} がない自由感を経験する心理過程である 。
- 結論的に (いかなる観行方法を使おうと) 頓忘の意識状態を経験するようになれば、それで (大変けっこうな) いいことだと言える。しかし、同事摂修練においては頓忘三觀という観行を通じた場合においてのみ頓忘把持を認定する。
- [オーム] とは 識主 体 機能が、 一切 の境界 ( 六境 : 色聲香味 触 法色聲香味 触 法 ) に對し 感覚 (触) とは 関係することなく 、唯一の意識 自体 のみあるときの心 ( 意識、感覚 ) の 状態を意識する ( 注視する、感じる ) 心理過程である。
- [だな] とは 識主 体 機能が、境界 ( 六境 : 色聲香味 触 法色聲香味 触 法 ) に対し 感覚 (触) はしつつ も 、 概 念化 ( 知覚 ないし 認識、知的 ないし 価値的判断 ) をしていないときの心 ( 意識、感覚 ) の 状態を注視する ( 意識する、感じる ) 心理過程である。
- 受動性 [ だな ]
- 能動性 [だな]
- 概 念許容性 [だな] (即 非是名)
- [オムナ] と は 識主 体 機能が 、 [オーム] と [だな] が ひとつの 流れ として 進行 していく ときの心 の 状態を注視する ( 意識する、感じる ) 心理過程
-
いつでも
[オーム] [オムナ]
あるいは「
頓忘
」
状態
でいる
ことができ
ると、いいと思うか。
(いいから、求めるの ではないか! )
絶対に いいということを納得してこそ 頓忘把持 で ある。
( 3 ) 頓忘の必要性
世の 人が い う世界と は 自己主観性を前提した 表象物 である。自己主観性に よって あらわれる 、 その 表象 物を実 体 視し、これを 「 分別 - 是非 - 執着 」 しながら苦痛と戦いを つくりだす 。自己主観性 ( フィルタ ) による世界に 出会わ なければ ならないの だろうか、それとも主観性が挟まれない世界に会わなければ ならないの だろうか?状況に応じた選択問題に なるだろうが、 主観性が立ち込めた世界を客観的な世界と 思い込む 態度 から は抜け出 さねばならず、 主観性が挟まれていない世界 で 人生を おくれるのが いいだろう。主観的に認識する世界 にまみえ ながら生きる人生の結果が苦痛であり戦争 であるとするなら、なおさら 言うまでもない。上記 の 頓忘とは、まさに世 の中 の苦痛と戦争を拔本塞源してしまう道 であり、どれほど 重要でしょうか。 万金の プログラムである と強調する 。
02. 頓忘三観 と無限マントラ
頓忘三観
- 第 一 観を観行しながら 、 観行に相応する感じ を得る。
- 第 三観を観行しながら、観行に相応する感じを得る。
- 第 三観を観行しながら、観行に相応する感じを得る。
- 上 の 三 観、それぞれ が すべて 無限感 ( 解脱感、涅槃 ) として 経験される。
- 三段階 の 感じを一味に統合された感じ を得る 。
- 一味に統合された感じを無限感に熟成させて感じる。
- 無限感が一相三昧であれば、これを 仏 名號、阿弥陀 仏 に約束して 、 一行三昧 ( 無限マントラ ) 化する。
03. 意識の展開過程 ( 実習 )
- 衆生の意識は 「 オームから→いる→いい→たい→ クソッ →不満 」 に よって、 苦痛と 争い に と 堕落していく。これ が煩悩構造であり、これを 詳細に列挙する と 十二 縁起で ある。オームを 体 験する ために 欲求 (~し たい ) するときと 、ただ、 価値評価だけ するときと を比較して 、 心理的にどのような差異が感じられる かをみ て、同じ方法で価値付与を する ときと 、ただ、 存在付与のみするときの心理的な差異を感じて みて 、 最後に 存在付与 (概 念化 ) 自体 を置 き離し てしまうと、どのような心理が 体 験 される かを感じ てみる 。
- [ オ ー ム] - [ ある ] の 間 を [だな] というが、これ細分化して能動性 [ だな ]、受動性 [ だな ] との差異も感じてみる。能動性 [ だな ] は対象を能動的に 感覚 (触) してはいるが、 概 念 ( 存在 ) を付与 し ない状態であり、受動性 [ だな ] は 対象に 概 念を付与し てし な し、 能動的に も触することなく、 受動的に 向こうから照らしてくるその まま通過させる状態をいう。 概 念以前の意識状態とは [オムナ] の意識状態をいう。
- 「 オーム - 受動性だ な - 能動性 だ な - 肯定的 概 念 生活 - 否定的 概 念 生活 - たい 」 との間を行き来しながら 、それぞれ、 その意識状態に応じた感じの差異を 得てみ る。
04. 頓忘断想
- 最も確実な現実、実存、最も確実な 「 生きている 」 性。
- 価値規定をす るなら ば、それは 「 ○# 」で ある。 「いい」 で ある 。 「極めていい」である。「 静 けさ」 であり、 「 平和 」 であり、 「 惺惺寂寂 」 であり、 「ガラーン」としており、「ボーッとしているようで 尖鋭に 目覚めて いる こと」 である。
- 間にとどま れ 。
- 感 : 旣存感、旣成感、未成感などが それぞれ 何%か? (合わせて 100% )
- 感 : オーム感 - 空間感 - だ な 感 - 頓忘感! どのような 瞑想でも感じが収斂処である。
- 感 : カント ( Immanuel Kant ) が物自 体 を 感覚 認知過程に とらえた とき、感じ に留意してい たなら ば、 頓忘道人になることは簡単だったはずだが、 はたして カントはどうだ っただ ろうか気になる。しかし 、そうはし なかったようだ。 そこに留意してい たなら表現し てい た だろうから 。
- 客を置き、主 置いて 、主客を観照する者まで置い てしまった 状態 。 この状態を感じる。
- 目覚めている ( 覚醒 点 頭、オーム ) は、そ れ自体で 意味があるが、目を覚ましていることに関心 ないし 意味が 載せられる ほど、 一切 に対 する 実 体 化心理が消えていくだろう。 [オムナ] 瞑想も同じだ。
- 逆らわずに流れ る 平常心が道である。
- オーム : 感覚 以前の純粋意識 ( 感 じ) 状態を意識して ( 感じ て) いる 。
だ な : 感覚 はされるが (感覚 をして ) 概 念化をしていない意識状態
- だ な : [ オーム] が 感覚 以前の意識 だとすれば、[ だ な ] は 感覚 状況の意識である。
- だ な : 六境が六根に映 りはするが、概 念化がされない。
- 「 ただ あ る 」 と 「ただ、目覚めている」。 前者は存在論的な 概 念であり 、 後者は認識論的な 概 念という程度のニュアンス ( nuance ) 差異 で なくはないが 、いったん、 同じ意味で使う。 「 ただ ある」 あるいは 「ただ、目覚めている」 とはど のような 心理過程のときに最も的中するのだろうか 。 間 ( 空間 ) に留まる。続いて間を 取り払う 。抜 った 後に残っているもの 。 それは目覚 め ていることであり、 「ただある」 のエッセンス ( essence ) であり、 あらわに なった 仏 性、 あらわになった 自性、 あらわになった 仏、天下 で 最も確実な実存であり、意味 で ある。しかし、これもまた空で あり、 固定された実 体 がない。この生え際の力動性を 納得 するとき、これを すなわち 悟りという。
- ただあると は : 間に 留まる + 間を 取り払い、残るものを捉える
- ただ存在 だけすること ( 既存 ) だけで100%完全であることを自覚することが頓忘哲学の核心である。
- ただ存在すること ( 既存 ) だけで無限%完全さが 納得 されるか 。
- ただ 眺める ことで あり、[〜 のみ]、[ 〜だ な] だ。
- [オムナ] 散策の基礎所感 : 如如 だ ( 燭台 ) 。静かな平和感 ( 炎)
- [オムナ] と は、 心が内側 に向けて や外 側に向けて、一切 のこと に依存して いないときの意識状態である。 すなわち、そのまま 臨在する存在過程であり 、 意識が 発 展 あるいは 堕落以前次元で自適する心理過程である。 アカがついていない、 自然のままの 性品 を自性と いい、 自性を自證 (納得 、 點頭 、経験、感じ ) することを禪 仏 敎 で は 見性という 。
- [オムナ] と は、「 ただ あ る 」こと、「ただ目覚めて いる 」こと を意識する心理過程 。 内外に むける すべての関心を 取り除いた にも かかわらず、ただ 現われ る だけ ( 現前するだけ ) の 表 徳 の something ある。
- [オムナ] とは、 立たち所どころに 把持することが能 いというの ではなく、頭を壁に先打ち つける 時間経験が もっと 重要 でありうる。すなわち 、 粘り強く取り組んで、 戰戰兢兢する時間がより重要 であることもある ということだ。
- [オムナ] と は、 自我が消え 去り、とらわれることのなく目覚めている 心理過程である。
- [オムナ] が難しいのは、それを経験していながらも、それを意識 できてい ないからである。
- 純粋 に 目覚めている ( オーム ) の 体 験」をしたと する。 火種を得たわけだ。この火種 を 優しくあお る だけです。あお ること によって炎が起こる。この炎の強さが ある 程度 立ち上がると、 生活全般が平和 にな る。あお ることとは 我空法空 と、 内外のすべての念 体 を放下する こと であり、受觀、因果因果觀、知足觀などの観行に より、 基礎受に とらわれないこと が、そのあおりの基礎 である 。また、八正道、六波羅蜜などの方便を状況的に敏捷に活用することも 「あおる」ということ だ。
- 純粋目覚めていることの意識状態を [オーム] と いう ことにしよう。 [オーム] を 体 験する人生を深化させて行けば行くほど自己自身だけが知っている 繊 細 な喜びの 意識領域が どんどん 開 け ていく。重要なのは [オーム] の基礎 体 験である。この基礎 体 験を生活の中に掘り起こし出し 、 枯れないように守らなければ 、そのまま 逃し てしまい、 忘れ さってしまう。 過去の習慣的 ( パターン 的) 生活の気運は日差しをさえぎる雲のようだ。せっかく現れた 日 の光を押し寄せる雲が防いで しまう ように、せっかく意識 するように なった [オーム] 体 験が過去の習慣 のせいで、 埋めら れてしまい やすい。だから [オーム] 体 験の先行 あるいは 後行作業 として、 嚴正 な 我空法空観行、嚴正 な 戒律と禪定、懺悔、祈祷、嚴正 な 食生活などの波羅蜜が必要である。
- [オーム] と [だな] は、 体 験的に ひとつの 流れ る 線上にある。 バッサリと切って 二分法に分けるのは多少無理 がある 。 ただ、 眺める ことで あり、 「 〜 のみ」であり 、 「 〜だ な」 だ。
- [オーム] と [だな] を 過剰に 嚴格に区別すること は 必要ではない。 [オーム] と [だな] は、 体 験的に ひとつの流れの 線上にある。 バッサリと二 分法に分けること に は無理 が ある。 [だな] の段階を 「 受動性 [だ な]」、「 能動性 [だ な]」 で 分けるすると 、[オーム] と 「 受動性 [だ な ] 」 は、 ひとつの 流れ として 行き来するしかない。初歩修行ほどなおさらだ。問題の焦點は 、 境界に対して 概 念化 することなく 、執着しないことだけである。
- [オムナ] : 概 念以前の意識状態 にあるときの 感じ ( 意識 ) を吟味する。
- [オムナ] は [オーム] と [だな] を 一つの 単語 に縮めた 言葉だ。 じっさい、「 オーム 」 を 体 験 する ときに 「 受動性 [だ な ] 」 はほぼ避けられず、 いっしょに体 験されるので 、[オムナ] と表記すること が 望ましい。
- [オーム] ないし「 頓忘 」 は、 一切 の依存が排除された状態である。
- [オーム] 、「 頓忘 」 は、知足の極致である。既に あること ( 既存 ) の極致!
- [オーム] 修練 が進むに連れ、 意識の分布において 概 念以前 に 休息を取る時間が長くなる の は当然である。生涯 、概 念 圏 のみ で 激しく生き たあと、 生を終えてしま い 、絶対多数の人を考えてみると 憐憫 が行く。
- [オーム] は、絶対的休息空間である。
- [オーム] は、觀念内容ではなく、感じ られる体 験状態である。
- [オーム] の 体 験を 助けるため 、 つぎの ような想像をし よう 。 すなわち 、この瞬間 、 六識は存在する が、 突然 、 六境が消えたと想像し よう。 その際 に感じられそうな体 験が 「 オーム 体 験 」でありうる。 想像されるその状態は 「 夢のない眠り 」 のような状態ではな く、 尖鋭に 目覚め ている状態であることは当然である。
- [オーム] と は、「 色聲香味 触 法 」 という燭台が設定されていないような心理過程である。 体 験されている ( 感じられる、経験される ) 純粋意識である。あえて [炎 - 燭台] という形式を借りて表わ すならば、 識主 体 機能が 、 純粋意識を燭台に 見立てる ことで純粋な感じを感じる心理過程としてもよい。この 遊びのなんと 至福よ! 店頭 (納得) できる 者は、 仏陀 であり、不然であれば衆生である。!!!
- [オーム] や [だな] で生活することは 確かに望ましいということは、少し 努力すれ ば 納得できるだろうが、きちんとよく消え (体 験され ) ていか ない場合があ る 。その理由は 簡単 である。 「 ある → いい → たい → クソッ → 不満 」 などの生活 が 習慣的に 染み込んでいるからである。 その習慣が削除され ればされるほど、「 オムナ ( オーム ・ だ な) 」 的解脱の生活を送ることができる。複数 の 方便 (機法) があるが、解空二十七條の観行は 非常にいい 方便になるだろう。
- [オーム] が海印三昧 なら ば 、[だな ] は、華厳三昧とすることができる。
- [オーム] と は、一切 (主体 と 客体) と 共に いない心 の 状態である。
- 私たちの意識空間に おいて、目にとまるものがなんらかの客体 にしかない人は、死ぬまでその 客体 を楽し み、客体 に中毒 し ていく。結果は苦しい 世の中 に輪廻するのである。ところが、 一切 の 客体 が消えた状態を経験 するよう になった人は、 見どころが もう一つ生じたのである。見ても見ても飽きず 、ひたすら 良 く、 輪廻をしていない 「客体 が消えた意識状態 」 が その 見どころである。
- 運動 の 中 の 究極の運動である。
- 六境 ( 色聲香味 触 法 ) を 払い除けた ときに 、 どのよう状態が 現れ出るの だろうか 。 このとき現われる状態が まさしく それ ( 頓忘、自性 ) である。 「 六窓一猿 」
- 六境が六根に映っ たとしても、概 念化がされていない。
- この状態 に対する 感じは、点のような状態で 、 意識さ れこと ではなく、 スカッと 広がった空間のように感じられる状態である。
- 一日の 生活を [オーム] で出 発 し ては、[オーム] に戻ってくる ようにする なら、その人生は 驚異的 ある。 あたかも、一日の生活が 眠りから出 発 し 、眠りに 戻って休息を取るように 。
- 1 日 1 時間 100 日の法則 : ヴィパサナ を 1 日 1 時間、100 日を観行 する なら 、 どの ような 結果があると予想されるか 。 予想されるそれが [オ ー ム - だな] である。 すなわち、 頓忘第 一 観である。頓忘第 一 観を 100 日 の努力をせずに、 すぐに 突破できる だろうか 。あるいは 、100日の 努力をして突破するの だろうか 。 鹿野苑で講義を聞きながら悟った ヤシャ ( 耶舎) など 55 人阿羅漢 ができたということ の意味 を ど う受け止めるのか。
- その文化に行けば、その文化の 法 を : その文化圏に行けば、その文化を経験することが知 恵 ある者の生活態度である。ここ は 同事摂文化村である。同事摂村の高級課程メニューは頓忘 で ある。同事摂高級課程に少なくない財貨と少なくない時間を投資して来られた方々が 、 頓忘を経験すること の 積極性が脆弱であれば 、 遺憾 なこと だろう。頓忘を理解して観行しなければなら ない 同事摂村で 、 念 仏 、話頭 (公案) 、 ヴィパサナ 、オームマニ パ メフムをしている ならば、 知 恵があり 知性 的な ことだろうか 。 麦飯村に来たら麦飯を経験するものである。
- 三 観、[ ただ在る - 我空法空 - 現実受容] で いったん、全て である。
- 何 もすることなく、ただ在れ 。ただ 、 覚 め ていなさい。
- 「 空 」 眼鏡をかけて生きなさい。
- 今 、 感じて いるもの。 今 の 基礎受 。 それ を、そのまま 受容する。
- 空聚 : 宇宙は空の 集まり である。
- 空 - フィルムを持って来なさい。
- 空 しい。あるいは「 ない 」というの は、存在論的に 「 ない 」という ことを意味 するの ではなく、認識論的に意識の流れを さまたげる ことがないという意味である。
- 絶対論旨: 高級課程において「絶対」という言葉がある。辞典的にはどうであろうと、同事摂においていうところの絶対とは、「相対するなにものもなく、ただ、それだけがあるとき」それを絶対という。
- 肯定と超越 : 肯定的自我観 ( 知足 ) でもって、いったん、 幸福 だ が、 少しずつ 自我の無常性の ゆえ に壞滅の不安に包まれる。この不安を超越する道 は、 自我に対 する 認識 ( 観点 ) を 正すこと である。有の観点に立つ ならば 壞滅の苦痛は当然なこと、壞滅の苦痛から 抜け出す には、有我の観点を無我の観点で転換しなければならない。これ が 無我 (空 、非我 など) 観の生活である。同様に 、 法一般も無常の法則に壞滅されていく ようになっている。 法 ( 対象 ) に執着す ればするほど 苦痛が伴う。 やはり、 法空 観 の 生き方が求められる 。我も空で 、 法も空である という 観照 をすることにより、得られる功徳 は何だろうか 。 果位の涅槃である。果位を今 ただちに 決行しようとしたとき の障害物が、 我 であり、 法 であるので、 我空 観 、法空 観 を波羅蜜 の 一つ として使う のだ。
- 既存の延長線上に頓忘がある。 「 頓忘 」 は 「 既に在 ること ( 既存 )」 の極致であり、知足の極致だ!
-
基礎受
(
感じ
)
受容 :
( 1 ) 自体 受容 ( 炎と燭台 ) 、 ( 2 ) 法界転嫁、 ( 3 ) 自己 浄 化は法界 浄 化 - 頓忘と寸鐵 : 無我、非我、空、我空法空、 即 非、無我相人相衆生相壽者相、如夢幻泡影如露亦如電、無有定法、無念無相無住、至道無難唯嫌揀擇。寸鐵一つ を貫けば 全 体を貫くのだ 。
- 頓忘
- 文化以前 に、そのまま生きる 。
- 「 執着 - 是非 - 分別 」 をしない。
- 目を覚ましていることを知っている。
- 目を覚ましている意識を注視 ( 意識 ) する。
- 我空法空の観行に より 主客 一切 を放下しながら目を覚ましていて、目を覚ましてい ながら 我空法空の観行に より 主客 一切 を放下する。
- 頓忘瞑想 の 設問
1 . 概 念 を捉えられたか ? ================= 5-4-3-2-1
2. 体 験がされているか? ================= 5-4-3-2-1
3. いい の か ================= 5-4-3-2-1
4. 絶対にもいいか ================= 5-4-3-2-1
5. 用 解脱は? ================= 5-4-3-2-1
- 頓忘の 3 要 :
( 1 ) ただ在る ( 存在感を感じる、存在する、目を覚ましている意識を意識する )
( 2 ) 我空法空
( 3 ) 現実受容
- 頓忘をあえて三受指向で表現する ならば、 捨受指向である。この捨受が 、 死 にまさるものはない という認識が 確然としたものになってくると、すなわち、 生死一如である。
- 頓忘 のための コメント「announcement」 : 現在を 生きる ことができないのは、執着 ( 欲望 ) のせい である。この瞬間 、この 現在 、 心がここに おれ ない理由は、 ひとえに、 関心 が 行く何 か があるからである。それは 、あくまで名前 だが、その 名前という のが紅爐點雪のように 、まことに 些細 だということを 瞑想的にわかっ たとすると、 その欲望から逃れることなのに。無限観点から見 るなら ば 、 地球、銀河系、全宇宙も すべて 紅爐點雪ではないか?そ のとおり だと思 えるだろうか 。 それならば 、この瞬間すべての欲望を休ん じて、ただ 現在 に 存在してみなさい。何 を体 験 する か?
- 頓忘を哲学的に整理す るならば、 空性相一如が適格である。空性と性性と相性と空性相一如性が哲学的に 納得できるかみてみなさい 。 (『 菩提方便門 』 思想 )
- 頓忘を 確かに把握したのに、 頓忘に続いて没入 でき ない理由? - 硏鑽
( 1 ) 価値優先順位
( 2 ) 慣れ親しんでいる サイダー ( cider ) の 味
( 3 ) 業障
( 4 ) ******
- 「 頓忘を把持はしたが、 水っぽい 感じ がするという人がい ます。こ ういう人への 適当な指導の言葉 が欲しい 。」 ( 指導 者 A 氏 の要請 )
( 1 ) 水っぽいそれに習熟する。習熟するにつれ、体 験 が随 伴 す る。
( 2 ) 中毒 している サイダーを 探さ ない よう 努力する。 ( 持戒 )
( 3 ) 無意識の微細煩悩を えぐり出す 努力 を する。 ( 斷食、呼吸、禪定 など)
( 4 ) 意味整理 : 一切 の依存が消えた状態で 、満足する ことができれば、残りはボーナス ( bonus ) である。
- 頓忘を主題に 体験をシェアする こと が 頓忘を助ける。
- 頓忘の歷史
( 0 ) 63 年色 即 是空打破
( 1 ) 87 年 8 月 15 日 泰安寺で 覚 性 「 オ ー ム 」 點頭
( 2 ) 10 余回の強力無限 体 験
(大 2、ジョギジョン [조기정] 、堆雪堂、碧蓮禪院、Avatar 1〜3、菩提庵石窟、Carmel Drive、LA Starbucks、87 年 泰安寺 など)
( 3 ) 覚 性點頭を 「 オ ー ム 」 と名付け る
( 4 ) 周辺修行者たちに実験
( 0 ) 間にとどま れ 。
(5) [オムナ] 開発
( 0 ) 我空法空
(6) 「 頓忘 」として 再定立
( 7 ) 空性相一如の念 仏 禅との統合
(8) 「 頓忘 」 理論の 発 達
( 9 ) 無限マントラ
- 「 オムナ 」 と 「 頓忘 」 の差異 : 高級課程前半期には [オーム] だけ観行 して いた 時期 があ ったが、[ オーム] と [ だな ] を合わせ た [ オムナ] を観行 すればいいようになった。 次は、300 万年 の 間 実体 視 することに親しんできた 人間のエゴ ( ego ) 、すなわち 「 実 体思考」をえぐり出し 、[ 縁起 、空] という正見 ( 正しい価値観 ) を定立観行しなくてはならないという洞察が 、 オーム として 我空法空 観 を加え て、「 オーム → オムナ → 頓忘 」と変 化 発 展 するようになった 。 [ オーム] ないし [オムナ] は頓忘三觀 の第 一観 [ ただ在る ] と 表記し、[我空法空] は第 二観 、 これに [ 現実 ( 感じ、基礎受 ) 受容] を一つ加えて 頓忘三観として 定立した。 ときおり、体 験上 [ただ在る] [ただ目覚めている] だけで充分 なのに、[ 我空法空] のようなものを、なぜ 足さなければならないのかという 質問を受けたりする 。 その質問 (の意図) は 理解 できるが、まったくそうではない。 無意識深い深いところ で「私 」 や 「 あなた 」と する実 体思考を宿便 のように 堆積 さ せて いるのが衆生一般の 霊性の 現実 なのに、その宿便 を削除せずに [ ただ 目を覚まして いる ] 程度で何か うまくいっていると 考えてはならない。 釋尊 と 龍樹 の指針 1 号、正見 1 号 が 無我 であり、 空であったことを 軽く見過ごしてはならない。 思惟 ( 思索 ) が必要な ところ である。
- 人はすること に 集中する あまり、し ないことを忘れてしまう。 「 頓忘 」 と は、しないことをすることで ある。
- 自我が消え 去り、気にかかるものなく目覚めて いる。
- 自我が あろうとなかろうと、 存在界はそのまますでに 概 念以前であり頓忘 で ある。
- 人文学書籍が何卷 になる か? 数千数万数十万を超えるものである。 ひとまず 10,000 卷とし よ う。最小限の人文学といえば 1 万卷の 1/100 である 100 冊程度である。最最小限の人文学といえば、最小限の人文学の 1/100 である 1 卷ある。同事摂一般課程の生活の指針は、まさに最最小限の人文学である。言葉が複雜 になる ので 、ただ、 最小限の人文学としよう。
- 実 体 視する か 、縁起 視する かは 、 衆生 な のか、 仏陀なの かをいう。
- わらくず : 修練生 が 修練 するのを阻害するわらくず がある としたら、 予想される わらくず は何だろうか 。 頓忘を なかなか 把持しない理由、頓忘を把持したのに面白さや意味がない理由、頓忘に続 け て没入 できない 理由?
( 00 ) 業障
( 00 ) 基礎脆弱 ( 60名中60等 )
( 00 ) 発 射臺脆弱 ( 修練比1億ウォン )
(01) 中毒
(02) 不傾聽
(03) 自己流
(04) 中古部隊
( 05 ) 念 体
(06) 真面目さ
(07) 基礎信念
(08) 人文学
(09) ダイエット
( 10 ) マスター信頼脆弱
( 11 ) 動機脆弱
( 12 ) 体 の コンディション 、 健康
- 波羅蜜 : 体のコンディションを最適 に堅持するよう 努力する。
- 夢の中でも、默言する ( 默言 自体 に 実 相を接する 。)
- 夢のない眠りのような状態ではない、確然 たる 現実である。
- それ ( 頓忘、純粋意識、妙 覚 、自性 ) は、今ここに昭昭 霊霊と に存在している。 納得 ( 點頭 ) できる か?感じられる か ?
- 長い年月修行して こそ 解脱 できると 錯 覚して はいけない。 一つの 観点転換 が 解脱 につながる 。
- 老人正 体 性 : よわい ( 齢) 80、90 歳 になった としよう 。 どのように在る のがベスト ( best ) だろうか ? やはり 頓忘 で ある。
- 誰 し も 、この 状態を既に 体 験している。 ひとえに、体 験している という ことを知らな いのが、残念で しかない。ここで要請 す ることは、すでにそれを 体 験している という ことを 分かれということ である。
- 次は、自身の心理過程をよく調律 し ながら生きる最高 ( ? ) に 成熟した人の母型が提示される。
- 頓忘 を 把持 できていなくても、 助波羅蜜が熟したら頓忘把持が容易にな るし、 把持 しているとしても、 頓忘が 進むという ことがあ る ので、助波羅蜜の修行も必要である。
- 頓忘 - 知足 - 具現 が各各 ( ) :( ) :( ) %で捕えられているか 。
- 頓忘 体 験 の 程度が 5 ( 非常に良い ) であるが、頓忘の価値 ( 意味 )、 優先順位 ( 価値観 ) がナンバー 10 なら?
- 同事摂 が この天下のすべての人に伝達したい (体 験させたい ) メッセージ ( message ) がある。それは何である か。 頓忘 で ある。頓忘の正 体 ( 実 体) は何である と思うか ?
- 2 個のへその緒を切 り なさい。アート マン ( ātman、 真我) と ブラフマン ( Brahman、創造神 ) だ。
- Ding an Sich、物自 体 、超越者
- 心を 引きずってしまう 仕事 であったとしても 、 それに 心を奪われ ないように しなさい。 ( 應無所住而生其心 )
- 心が何かに留まること、それがその人の人生だ。 留まったとしても、 執着の 痕跡 がな いように 留まれば聖者であり、執着の 痕跡 が残っていれば凡夫 であり、 衆生 で ある。 [オーム] や [ だな] 、 [オムナ]、 頓忘などは 痕跡 な く 留まる方便 である 。
- 真水 の 味。水平 情緖 。是プラスではなく非マイナス。 楽 受ではなくて捨受。捨受中、その極点の 覚受 の捨受が頓忘ありニルヴァーナ である 。
- 頭はない。 目を胸につけて 散歩しなさい 。
- 瞑想 散歩 ( 意識 散歩) の同一の 散歩 路を この上なく 楽しんでみ る 作業である。同一の経験の反復に興味を失わない 学 習 であって こそ 、 意識は休むことができ、静かになることができる。
- すべてのもの ( 環境 、 体 、 心 ) に注意を 向けないにもかかわらず、 確然 とした 現実 として体 験されること、それを しっかり捕まえなさい 。いや、 捕まえるまでもなく、 すでにそこにある 、それを 感じたら いい だけである。
- 体 の調子が悪いので薬局 に行っ て薬 を買っ たが、 その藥が華佗 ( 医者 ) が 用いた薬剤かどうか を知って服用することが重要だろうか 、 それとも いったん、飲んで 治ることが重要だろうか? 龍陀僧侶のそれ が仏 祖のそれと一致して いる か い ないかに神 経を使うなら、それ だけ 徒労の消耗戦になる。 「龍陀プログラムに来たから には、 龍陀のそれ をいったん、 通過 して みる経験を する 」 の が全部だ。その結果 、 良ければ 採用し、で なけれ ば捨てればよい。 龍陀關を 通り抜けなさい 。
- 無限次元 からすると 、宇宙も刹那の事件である。その時間が長いと 思うのは 、人間的な錯 覚で ある。
- 諸衆生が土臺なく住んでいる。 「 ただ 在る」 ことに目覚めること。それ が 生 きることの 土臺である。
- 学ぶことは もちろん 重要である。しかし、 自ら 思惟して 悟る ことは、 もっと 重要である。 「 法燈明 - 自燈明 」
- 人は毎瞬間 、なんらかの 心理過程 ( 心 の 状態 ) にある。
- ベクトル ( vector ) 遊びから抜け出す道は 根源 に帰る こと だ。
- [見る こと ] と [見えること] との間のエネルギー の差を 感じてみなさい。
- 見どころが上林公園しかない咸陽では上林だけ に 向 う。 もし 、上林 よりも大きく、 もっといい徳津公園 (全州にある公園) が咸陽にある としたら、そちらに向かうだろう 。飲む ものが コーラしかないところでは、 有害 なことを知って いても コーラだけを もとめて、 コーラに中毒 し ていく。ところが、 泉が湧き出たら どうだろうか?
- 否定境界 に触した 瞬間 :
( 1 ) その境界がすでに持っている ダブル プラス ( ++ ) とプラス ( + ) に留意 する。
( 2 ) その否定境界の領域は、肯定領域 ( プラス、 ダブル プラス ) に 比べると、極めて 少ない という 認識をする。
( 3 ) その否定も 実際 は知ら ず 、観点に基づいていくらでも肯定性がある ものである 。
( 4 ) 否定が確実であれば 、 理解と愛の土台の上にベスト 点 を探す。
- カラ (空) の 哲学 : 実 体 と空間 === 念 体 と意識空間 ---------- カラ、カラ、カラ の歌
- 非苦を驚異 感として 感じ ることができず、当然 視 する凡人 ら!
- カラの哲学 : 実体と空間 === 念体と意識空間 ---------- カラ、カラ、カラの歌
- 人の不幸はだいたいにおいて、識主体機能が自身の心理過程を思いどうりに (意志的に、意図どうり、選択的に、意識的に) 調律できず、習慣的に (パターン的に) 流れていくことにより発生する。一定水準の幸福も、この習慣的次元から得ることができるが、より高い水準の幸福を生きるためには、この習慣的次元を超えて、心理過程を意志的に調律できなければならない。
- 釈迦牟尼が「ただ在る」ときは、どのよう状態に臨在するのだろうか。その状態が [オーム] であり、[オムナ] であり、頓忘であり、自性である。
*空衆宇宙論 : カラの歌
- 人の幸不幸は、境界に会ったときの境界解釈いかんにより決定される。
- 事実を消すのではなく、考え (念体) を消すのだ。「事実」という粒が残ると思うのか。それなら、それは「事実」ではなく、瞬間、"事実" であると錯覚している観念にすぎないことに目覚めなければならない。「事実自体は永遠の彼岸にあるだけだ。 Ding an Sich にすぎない。物自体にすぎない。超越者にすぎない。」
- 人生とは根境識 (三事) が和合することにより、幸不幸を感じる過程である。 5分以内に、なにかの境を設定し、最高の幸福を作りなさい (幸福呼び水)。頓忘は、どのような境を設定する過程であると思うか。頓忘は、境の中で最も純粋で、最も真理らしく、最も非無常な境 (法境 0) をつかんでいる心理過程である。
- 考えてみてみよう。至人は、この瞬間どのような状態にあるだろうか。この瞬間、どの有限に縛られているだろうか。至人が、この瞬間に有限から抜け出し、無限に臨在する場合、その秘訣は何であろうか。道は簡単に予想できないだろうか。存在するものにとらわれないであろう。とらわれないためには、とらわれる要素 (実体) を止揚するべきではないか。その、とらわれるものとは実体である。その実体を縁起により、空で把持するのであり、その結果、このようにとらわれるもののない意識状態に臨在するのである。極めて分かりきったことではないか。
- 聖者の正体性 : 破根した聖者、依根に目覚めている聖者のアイデンティティを採用してみる。
- 世界はそのまま、一つである。衆生は自身の主観性により世界を表象する。表象された世界を世界とすることによって、一波万波のどろ沼遊びをする。まさに「分別 - 是非 - 執着 - 地獄 - 戦争」ゲームである。このとき要請される当為 (なすべきこと) がある場合、その当為は何だろうか。どろ沼遊びの最初の段階を正すものである。この正すものか頓忘瞑想である。
- 世の中を概念的に経験したことのない幼い王子のような少年が、散策をしながらどこかの街を見物していると仮定してみよう。その時の少年の心はどのような状態であるだろうか。その状態が [オムナ] でありうる。
- 世の中が私を揺り動かすのか、私が世の中を揺り動かすのか。世の中はじっとしているのに、私が世の中を揺すって葛藤に会う。
- 受動性だ : 「オーム」から世の中に向かって第一歩を踏むコンだとするか、客観的世界に向かってこそっとドアを開けるというか、とにかく、客体に受動的に、概念なしに会う。概念以前の客観世界が映ってくる。見えが見ておらず、聞こえるが聞いていない心理過程である。受動的概念以前の現前世界が「だな」の心理過程であるが、概念以前だけに前提されるならば、能動的な心理過程が起こるとしても関係がない。概念に落ちさえしなければ、魂 (?) に傷を受けないからである。そして、命題ではなく、概念の許容は目を覚ましているという前提があれば学習のために必要である「即非是名」すなわち、受動性 [だな]、能動性 [だな] 、概念性 [だな] と段階的区分を置くことも差し支えない。客観的な感覚だけがあって、主観的な知覚がない心理過程である。
- 修心四位
1) 価値観定立の段階
2) 体解脱 (二解脱) の段階
3) 用解脱 (四解脱) の段階
4) 無意識解脱の段階
- 識は一人立ちは不可能で、可能であるとしても意味がない。故に、識は宿命的に根を通して境に会わなければならず、その出会いがよければよいほど幸福である。無為を境として会うときに、最高絶対の幸福を享受する。
- 我空だから、私の意識が内向けに行くところがなく、法空だから、私の意識が外向けにも行くところがない。この時の意識状態を「オーム」あるいは「オムナ」あるいは頓忘とすることができる。
- ここに聖者が一人いるとしよう。貪瞋痴 (とん、じん、ち) 三毒が消え、現在、特別にしなければならないこともない聖者は、いま、どのような状態にあるだろうか。その状態が、この状態ず何よりあるらしい?この状態が良い理由は、そのまま静かだからであり、業を積むところがないからである。
- 歷代、多くの靈性家は放下に集中するという表現をよく使った。放下により表れる表徳の something にはほとんど留意ししていないのは、一理はあるが、ひとつ遺憾なことである。ここで同事摂の特色が一つがある。遮情と表徳の調和。
- 意識展開 : オーム - 間 - だな 1 - だな 2 - 我空法空 - 肯定視覚 (賛嘆、感謝、祝福、配慮)
- 意識の展開過程とその実習
- このまま、ただ存在するのが絶対であり、完璧なのだ。語默動靜行住坐臥に「ただ在る」を留意しよう。
- この心。自ら天國を作成できなければ、誰が作ってくれるか?
- 既にある、それを點頭することが頓法である。
- 一定水準の幸福も、この習慣的次元から得ることができるが、より高い水準の幸福を生きるためには、この習慣的次元を超え、心理過程を意志的に調律することができなければならない。
- 一種の宝物探し :宝物に対する强烈な好奇心 (動機) 要請
- 「さあ、いかがですか?」という問いかけにに対して、最高絶対の答を提示してみなさい。これは神秘に包まれた禪問答ではなく、理路整然とした理性を使った方法で充分である。
- 適應が解脱である。とらわれることが地獄である。とらわれないことが自由であり、解脱であり、極楽ある。
- 存在を存在するようにしなさい。人間は存在を止めどなく殺す。
- 存在自体で、無限OKをできるのか?
- 中毒した人々が大挙して住んでいる場所が娑婆世界である。
- 中毒とは、意図しなくても、エネルギーが行く心理現像である。
- 衆生の意識は「オームから → 在る → いい → たい → クソッ → 不満」と (流れるここ) により、苦痛と争いに堕落していく。これを詳細に列挙するならば、煩悩構造であり、十二縁起である。オームを体験するために、欲求 (~したい) するときと、そのままは価値評価だけをする場合とを比較して、心理的にどのような違いがあるか感じをみなさい。同じ方法で、価値付与をしたときと、存在付与のみするときの心理的な違いを感じてみなさい。最後に、存在付与 (概念化) 自体を手放してしまうとき、どのような心理が体験できるかを感じてみる。
- 「今、ここ」は、哲学的な今ここではなく、常識的であり、現実的であり、実存的な今ここでなければならない。
- 今ここに、心がすぐさま自由でありなさい。
- 至福とは、「是プラス : なにか肯定的なものが加わった」というものではなく、「非マイナス : 苦、罪などの否定的なものを捨ててしまう」こどである。
- 消して、頓忘する。そうしながら、時々、合掌して讃感祝配 (讃嘆 - 感謝 - 祝福 - 配慮) する。
- 真空妙有 : ガランと空いたこと(真空) と充満 (妙有)
- 真理という声にだまされてはいけない。馬糞食べ病気が治ったら馬糞が真理であり、仏経典でありバイブル (Bible) である。
- 真理とは Here and Nowにある。
真理とは意識内容である。
真理とは意識内容の中でも至高で、絶対的なものである。
- 天下はただ解脱、頓忘、如如実相にすぎない。人がわけもなくつまずく。
- 天下は本来、無為である。物自体であり、無有定法であり、即非であり、空であり、無我だからだ。ただ、人が概念化 (分別 - 是非 - 執着) にとらわれ、無為を有為に殺しに殺す。
- 徹底して因果を踏んで、天國を作れ。偶然な幸福、偶然な天國は (理屈に合わない) 語不成說である。仮に、あったとしても一時的な幸運にすぎない。
- 尖鋭に頓忘に目を覚ましていると、無意識に亂舞する微細煩悩が自然蒸発する。虚空 (太陽) を歌うと、雲が消える。
- Conditioned - Unconditioned : 有為の存在は Something conditioned である。無為の存在は Something unconditioned である。頓忘は無為の存在である。
- 貪瞋痴と煩悩即菩提 : 宇宙に菩提でないものがあろうか?
- 剽竊 (ひょうせつ) : コロンブスの卵立てるほうほうについて、ヒントをもらうと、なんでもない簡単なことだが、ヒントがなければ須彌山を越えるかのごとく難しいように、多くの法の悟りが、善知識 (指導者) の助けを受ければ、冷めたおかゆを食べるようにたやすいが、助けなしでは銀山鐵壁のようであるものだ。法の剽竊 (盗作) に目を覚ましていなければならない。オームや頓忘を、言葉で伝えるところは同事摂文化だけだろう。
- したいから過ごす人生と、しなければならないから過ごす人生
- プラトン (Platon) の洞窟 [八の字の図表]
- プラトンの洞窟 : 99.99 の明るい世の中に背を向け、0.01 の細かいものをあくせく選択して諸法をよくしている思い込んでいる人たち。
- すること (B) をなし、ほかにすることがないときに、何をするのか? 答 : 「このままただ、目を覚まして存在すること」 (A)
(A) に存在することがある程度に意味があるだろうか?
(B) をするときに、ただ (B)をするときと、(A) を基盤にしてにすることで、どちらを選択するのか?
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A |
B |
C |
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1 |
X |
O |
末 世 |
|
2 |
O |
X |
小乘 |
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3 |
O |
O |
大乘 |
- 確実な怨讐は「私」である。「私」を正しく見てみると、「私」とするだけのことがない。 「私」をはがしてしまって、天下を見回してみなさい。天地すべてが本来清浄であり、如如実相であり、無非仏であり、浄土だろう。
- 賢人の意識展開 : 人生三重奏 = 頓忘 - 知足 - 具現 (無我 - ナジサ - 讃嘆 - 感謝 - 祝福 - 作善などなど)
05. Scalar와 Vector
- ビッグバン (big bang) 以前と以後。すなわち being と doing
- 何個ぐらい Vecto rを持って生きるのか
- 人生とは數千の Vector で doing する過程である。一方、頓忘とは何もしない心理過程である。すなわち、ただ、存在しているだけの過程である。つまり、Being 過程である。
- なぜ、何もしないの心理過程 (頓忘) が必要なのか
06. 頓忘 問道
01.頓忘三観をきちんと観行しているか。
02.なぜ頓忘三観を観行べきであるか。
03.自家滿足度が5であるか。
04.自家滿足5を表現してみなさい。
05. 頓忘関係教材を精読してみたか。
06. オーム (覚醒) が點頭できるのか。 == 說明
07. 頓忘の3大軸は何か。
08. 空理 (我空法空) が理解できているか。
09. 解空 27 條を暗記したか。
10. 解空 27 條を理解したか。
11. 解空 27 條を何回読んだのか。
12.空理を納得した所感は。
13. 現実受容に対し、自信感は。
14.現実受容哲学を同心円的に展開すればどうなるか。
15. オームが仏性、自性、見性、仏などで納得されるか。
16. 上記 15 がはっきりしないとしたら、その理由はなにか。
17. 頓忘を把持した度合いが 5 であると確信できるか。 == 說明
18. 頓忘が絶対にいいのか。
07. 捨受と覚受
- すべての感覚 - 認知過程には、それに相応する感じが随伴する (そって起こる) 。
- 感じ (受) はいったん、苦受、楽受、捨受に分けられる。
- 捨受は、「覚受である捨受」と「覚受でない捨受」に分けられる。
- 苦受は、欲求 (必要) が挫折した状況で自然発生的に起こる、よくない感じだ。
- 楽受は、欲求 (必要) が成就した状況で自然発生的に起こる、いい感じだ。
- 捨受は、苦受でも楽受でもない中性的な感じ (덤담ドムダム) である。
- 覚受は、無為法を悟るときに起こる捨受である。
- 苦受と楽受は有為法の成就如何であり、覚受は無為法の成就如何である。無為法の成就がなくても、捨受状態で P100 に執着すると衆生であり、OP に留意するなら (Vector はないだろうし、無ベクトルの意識状態を即心即仏観しながら知足すると) 、その知足自体が仏陀である。
08. 触受構造
すべての感覚 - 認知過程においては、それに相応する感じが随伴する。
三事和合
触 (感覚) は三事 (根境識) の和合過程である。十二縁起の「六入 - 触 - 受」あたりを思い出すとよい。
三事和合と受
感じ (受) は根境識の三事が和合することに相応しながら起こる心理過程である。六入という六根が六境と出会うことが触であり、触 (感覚) するやいなや受 (感じ) が直ちに従って起こるということは当然な順理である。
三事和合と宇宙観
根境識の三事には、六根と六境と六識がある。 (六根 = 眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。六境 = 色境、聲境、香境、味境、触境、法境。六識 = 眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識) この図は、世界観ないし宇宙観を表すものとした。世界を、宇宙を見なさい。まさに六識という識主体機能が六根を通して六境に出会う心理過程に過ぎないことを知ることができるだろう。
三受定義
受 (感じ) は三受 (苦受 - 楽受 - 捨受) に分けて整理できる。苦受は苦しみの感じであり、楽受は楽しみの感じであり、捨受は苦しくも楽しくもない感じだ。
受 (感じ) と人生
感じ (受) 良くしようというが人生なら、感じ (受) をより良くするために眼耳鼻舌身意はより望ましい色聲香味触法に会わなければならない。
法 (法0) に対して
人は幸福のために、必ず、感じ (受) をより良くするために感覚器官である眼耳鼻舌身意でより望ましい色聲香味触法に会わなければならないとした。この点で、ほんとうに正しい観点を持たなければならない。いったん、眼耳鼻舌身という身体的な器官と色聲香味触という物質世界とのめぐり合いにより得られる感じは、どれほど良いといっても無常である。まともな幸福を求めて、この無常な感じを信じ頼りにするものではない。したがって、身体的な眼耳鼻舌身ではない「意」の側に道があるのだ。意と呼ばれる根が対象に会う境は法であるが、法にも無常なる有為法 (法 1) と永遠なる無為法 (法 0) がある。意が無為法 (法 0) と出会う心理過程を悟りという。人として生まれ、いったん、無為法をつかんだとするなら、法の月桂冠をかぶったことになる。
無為の感じ
最高の至高な感じは、識が意根を通して無為法 (法 0) を出会うことで得られる。自性が無為法であり、空が無為法であり、如如した受容が無為法である。頓忘は自性と空と現実受容が一和一味に感じられる意識である。頓忘は無為の決定版であり、頓忘の意識に達し、人間が期待することができる最極の至高至純の感じを経験する。
09. 頓忘六位
1. 悟りとは認識の轉換である。
2. 悟りとは、既にあるものの発見である。
3. 悟りとは、離苦得楽の最高手段である。
4. すべての感覚認知過程には、それに相応する感じが随伴する。
5. 應無所住而生其心 (とらわれのない人生) は離苦得楽の最高モデルである。
6. [オーム] は、頓忘における台風の目と同じである。
7. とらわれのない人生だけ生きるなら、どうして概念が傷になるのか!
10. 頓忘の仏教史的位置
11. 有為無為シーソーゲーム (Seesaw game)
- 衆生の人生。業障とビジネスを抱いて地獄まで転がっていく人生。
- 衆生の人生の中に悟りが起こる。
- 観行により悟りが増加し、業障やビジネスに熾烈度が低くなっていく。
- 悟りが證悟次元に仕上がって、業障は最小化していき、應無所住而生其心のビジネスを生きるようになる。
★ ★ ★ ★ ★
- 萬行の軌則 : 知性軸と意志軸
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知性(空間) |
理論 |
一相 |
知 |
悟 |
觀 |
想 |
恵 |
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橫斷 |
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意志(時間) |
実 踐 |
一行 |
行 |
修 |
止 |
瞑 |
定 |
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縱斷 |
- 前提信念一つ : [今ここに、このままただある、この存在] が私の人生全体の中、何%の意味で感じられるのか?
- 前提信念一つ : [今ここに、このままただある、この存在] を離れて、どこで仏陀 を探せるのか?
「成仏と即仏」
縁起 - 無非 仏 - 即 心 即仏 ---
- 前提信念 一つ : 触受構造、 三事和合 。すべての感覚認知 過程 には、それに相応する感じがかならずあるものだ。
- 神秘中 の 神秘: 神秘 中の 神秘 中の 神秘 中の 神秘 中の 神秘 は、だんぜん、 宇宙 のひとつの 中心 から北極星のように輝いているこの 昭昭靈靈 なる 意識 である。 意識 の 神秘性 を知ることは、一つの悟りであり、この悟りの基盤なしには即 心 即仏を会得することは 不可能 である。
- 頓忘三觀
第 一 観: [ ただ在る ]
제 二 観: [我空法空]
제 三 観: [現実受容]
- 観行風景: 観行 の回数が多くなるにつれ、 観行風景 がどのように変 化 するか 経験 談を 整理 、 共有 してみる。
- 頓忘 功徳 : (金剛般若波羅蜜経 15) 持 経功徳 品
須菩提 若有善男子善女人
初日分 以恒河沙等身布施 中日分 復以恒河沙等身布施 後日分 亦以恒河沙等身布施
如是無量百千萬億劫 以身布施 <3항하사수 x 항하사수>
若復有人 聞此經典 信心不逆 其福勝彼 何況書寫受持讀誦 爲人解說
須菩提 以要言之 是經 有不可思議不可稱量無邊功德