第 5 章 : 頓法
1. 頓法とは?
2. なぜ頓法が必要か?
3. 無数頓法 (頓法 A)
1. 頓法とは?
- 今ここで、とらわれから抜け出し、自由させるすべての観点が頓法である。 (頓法 A と B)
- それを理解すると、その場で解脱し、無限感を享受する観点 (認識体系) が頓法である。 (頓法 A)
- 頓法 (頓法 A) を理解することが悟りである。悟ればこそ頓法である。
- 色即是空を把持することだけが頓法ではない。人類は昔から生活の中でいろいろな知恵で、一つの考えを切り返してとらわれか抜け出したりした。そのまた、頓法である (頓法 B) 。
- 存在界は本来概念以前、本来超越、本来無限OKですので、鍛錬することは本来ない。ただ、悟りさえすればよい。 (頓法A)
- 頓法は八萬四千の経典に満ちていて、存在界の隅々まで首をだす。
- 色即是空、唯識無境、至道無難、應無所住、本来淸浄、本来無一物、一心法界、法性圓融無二相......、 (頓法 A)
- 同事摂頓法 : 頓忘、四大助波羅蜜 (頓法 A) 、無数のツール (頓法 B)
2. なぜ頓法が必要か?
- 存在界が本来隠然であるという頓法を知っているときと、知らないときの差異は?毫釐有差天地懸隔。
- 根本のところの観点 (頓法) で見たときと、枝末の現象界の観点から見たときとの差異は?現象界、枝末の観点から見ると、世の中は苦であり、根本のところの観点で見ると、存在界はすでに滅である。
- 頓法を理解することが悟りであり、その悟りを身につけていくことが修行だ。悟って磨きをかけることと、悟りなくして磨くことの差異は?悟りなく修行することは蒸沙作潘 。
- 私たちは、生活のあちこちで、かぎりなくとらわれている。このとらわれをそのまま放置して、そのように生きることが人生だろうと納得するのか、それともその時その時、頓法を方便にして抜け出し、本来解脱を生きるのか?
- 同事摂頓忘は仏教のエッセンスをカバーしているので、それ自体として比類のない正見であり、修行方便でも效率性に優れ、安全である (理路整然な教え) 。
3. 無数頓法 (頓法 A)
- 應無所住而生其心
とらわれることなく生きている。
何であろう行動のあとに痕跡がない。
ガチョウは空を飛ぶが、跡がない。
- 一切有爲法如夢幻泡影如露亦如電應作如是觀
存在するもので、なにか夢ではないものがあるのか。
まぼろしであり、泡であり、影である。
また、露であり雷である。
このように観照するとき、仏陀になるという。
- 照見五蘊皆空度一切苦厄
一切の苦痛から抜け出したいか。
五蘊が空であることを観照するのが道だと。
- 概念以前 : 概念で規定せずに眺める。概念で規定して見ることがよりまともだろうか、概念で規定せずに見ることがよりまともであろうか。もちろん、概念で規定せずに見る世の中がもっとまともであることは当然である。今すぐ、人為の概念遊びがない状態で眺めてみなさい。天下が自---然---であろう...どうだろう。この時あなたの意識はどのような状態か。ふ。
- 不思善不思悪 : 中国禅仏教の巨匠、六祖恵能が五祖弘忍から法の印可 (認可) を受けて、南下していた。弘忍の弟子であり、恵能の兄弟子である恵命が南下している恵能を捕まえて法を請い願う。恵能大師は不思善不思惡正與麽時那箇是明上座本来面目?と尋ねる。すあわち、善も悪も考えていないとき、あなたの本来面目 (ほんとうの心) は何かという質問である。この質問が下されるやいなや、恵命は悟る。どうか思うか。この文に接する人が、まさに恵命である。善も悪も考えていないときに得られることがあるのか。準備された者は、この質問一つで画龍点睛することができる。
- 元暁骸骨通
- 道可道非常道
- 単子論
- 本来無一物
- 色即是空
- 唯識無境
- 即非
- 物自体 :
- どんなものでも、その存在自体は物自体である。じっとして、主観性が介入していない物自体である天下を感じてみなさい。
- 世の中に対して何か価値判断をすることは、世の中がそのようなものではなく、人が主観的に自分のフィルタ (filter) を通して見る世界であるにすぎないということを納得しなさい。
- 結論的に、世の中について語るには、世の中自体をそのまま語らなければならないはずだから、自分の主観性を排除して見ななければならないだろうという気持ちで、そっと自分の主観性 (六根など) という主観的なフィルタ (filter) を払い除けながら感じてみなさい。この時、感じられることがどんなであるかみてください。ここで、なんらかの「あは!」が納得されないか。
- 放下 : 今、ここで、内外に何も心 (意識) を送り出さない (置かない、集中しない、与えない) で、ただ在る。このようしているときの状態を鮮明に感じるならば (意識するならば)、この意識過程が「オーム」であり、あるいは「オムナ」、あるいは頓忘である。
手を見る。
このとき私の心は手である。
手を片付ける。
手が消えた場所に虚空が表れている。
このとき、私の心は虚空ある。
虚空を片付けてみる。
このとき、唯一「それ」だけが意識される。
手を眺めるようにする。--- 感じ
手を片づけ、虚空を眺めるようにする。---- 違いの感じ
虚空を片付けたときに残るもの。------------ 違いの感じ