第 6 章 : 最小限の人文学
0. どうして最小限の人文学なのか
1. 感じ
2. 念体論
3. 概念がどうして墜落か
4. 空
5. 解悟解脱5要
6. 不可不幸5段階
7. 問道 6 章
8. 知足具現の原理 (0P100の原理)
0. どうして最小限の人文学なのか
(1) 実参実修と人文学 :
何を人文学とするか。人文学といえば大体において人文科学の略語として使う。すなわち、人文学 (人文科学) とすると自然科学や社会科学とは意味を異なるものとして定義することあるが、同事摂では、人文学としたときは自然科学や社会科学を含めて使っている。どの学問でも、人の幸福のために存在すると見るとき、人は人の幸福のために発展させてきた学問に対して、ある程度、適切な線まで学んで身に付ける必要がある。とくに、無為法である頓忘を理解するにあたっても、相當量の人文学の基礎があるのが良いだろう。
人文学は堆肥と同じである。地面に種をまいておけば芽が出て成長することもあるが、堆肥のような栄養をまいてあげないと満足な農作物に育たない。堆肥という栄養が染みている土地では、より満足な農作物を期待することができるように、意識の根底に人文学の素養がある人には、多樣な期待をかけることができる。頓忘を把持するためのはしごとしては、自性、空理、現実受容という三つの方便だけでほぼ充分だが人文学の素養が少しは必要である。
人文学というのは、それ自体で少なくない喜びを与えてくれる。知識人であれば大体において読書が幸福の呼び水となる。頓忘のためにも、適当量の人文学を学ぶのが良い。しかし、目的性を忘れて人文学自体に中毒してしまうことがないように。また、最優先的に頓忘三観の「今ここ (Here and Now)」 の瞑想で実参実修しなければならない。人文学が絵画について理論を学ぶことであるとするならば、実参実修は、まさに、画用紙に絵を描くことである。そのようにして、結果的には、実参実修的な内容と人文学的な形式が、一人の意識空間に調和をなして暮らしが整わなければならない。
(2) 最小限の人文学と最大限の思惟 :
しかし、人文学的素養を備えるためには讀書だけではなく、それと同時に思索が必要である。同事摂では、この両方の関係を「最小限の人文学と最大限の思惟」とよんでいる。読書は法燈明に会う過程であるとするならば、思索は、その法燈明を自燈明で消化する過程である。すなわち、思索のトンネルを経ていない讀書は、単純な知識と情報のコレクションになってしまうだろう。関係人文学は頓忘を助ける直説間接のはしごである。はしごは最小限の人文学とするが、それに対し思惟は最大限に要請されることだ。
1. 感じ
(1) 感じとは
人と機械の大きな違いは何だろうか。知能だろうか。AlphaGo の時代が訪れた今日では、知能については、すでに人と機械の違うところとは言い難い。それでは、その違いは何だろうか。それはまさしく感じだ。いくらスマート AlphaGo でも、喜怒哀楽を感じることができないという点では、そこいらの岩と同じだ。感じは生命の第一声である。
仏陀が菩提樹下で縁起の法を悟って解脱した後、鹿野苑に行き、最初の說法をされる。そのとき説いた内容は四聖諦、十二縁起、八正道であった。 十二縁起を見ると、凡夫の生涯は無明から始まり、行 - 識 - 名色 - 六入 - 触 - 受 - 愛 - 取 - 有 - 生 - 老死と流れていく。ここで六入とは、人の 6 つの感覚器官を言い、触という 6 つの器官で外の六境に出会う過程で、受は、この過程に必ず生じる感じをいう。したがって感じとは、私たち人が 6 つの感覚器官で対象を感覚したり認知するときに、すなわち、生命活動をするとき、必ず、従ってくるようになっている。人という生命体はそのように六入を持って世の中に生まれ、触をし、感じを感じ、その感じの管理いかんによって業を積んだり、解脱したりすることになる。仏教では、この感じを苦楽捨三受、すなわち、苦しい感じ、楽しい感じ、辛くも楽しくもない感じのセットで述べている。
このように、すべての感覚認知過程には、それに相応する感じがついて来る。感じは生命の特徵であり、生命の特権でもある。この生命の第一声が苦しくなることから脱して良くしようということ、すなわち離苦得楽が人生の目的であり、また、仏教の目的である。この生命の第一声をよく管理して最高の水準に引き上げること、それが人生を最高によく管理するものである。
(2) 人生の目的は、幸福 (いい感じ)
人生の目的は、幸福であり、その幸福のエッセンスは、「いい感じ」である。人類の歷史を見ても、すべての文化文明は、この良い感じを求めて変化発展してきた。政治、経濟、教育、宗敎、芸術、学問、医療、法律、技術などなどの発展はひたすら感じを良くするためのものだった。 AlphaGo 自体もまた、その感じを良くするために動作するよう作り出されたものである。
人とは、心と体が交わった有機体ある。人の心を観察してみると、何かを知る知性領域 (知) と、何かを感じる感性領域 (情) と、何かを行動する意志領域 (意) が交わっている。知性軸のエネルギーが強い人は硏究や学問の方に進む確率が高く、感性軸のエネルギーが強い人は藝術の方や人生を楽しむ方に進む確率が高く、意志軸のエネルギーが強い人は体を使って実踐する方に進む確率が高い。ところが、ここで見過ごしてはならない原理があるのだが、人の心の知情意をよく探ってみると、知と意は手段機能であり、情は目的機能であるという点である。すなわち、どうして知ろう (知) とするのかを探ってみると、知得れば気分 (情) がいいからであり、どうして行動 (意) して何かを成し遂げようとするのかを探ってみると、成し遂げると気分がいいからである。まさに、人生は幸福指向であり、感じ指向であることを重ねて確認することになる。
しかし、感じが良い、気分がいいのが幸福だとしても、幸福を単純な快楽主義と考えてはならない。幸福を測る尺度として度時未他生の原理を持ち出してくると、そのような心配はない。度とは程度が高いほどいいというものである。時とは時間的に長いほどいいということだ。未とは未来生 (次の生) まで続けばいいという意味である。他とは他人にまでよければいいということだ。生とは人だけでなく生命あるすべての衆生にまでよければいいということだ。
(3) 悟りと感じ
人という生命体は何に触れると (触) 感じが起きるようになっていると述べた。シッダールタ沙門が自分の肉体が死なないよう願っているときの感じはどのようなものだっただろうか。ところで、思惟を通して、縁起があるだけで、一定に区画された自我がないということを理解したときの感じはどうだっただろうか。前者はこの上なく重苦しいことであっただろうし、後者はこのうえなく、すかっと開けた感じだったことだろう。納得するか。
理解とは、知らなかった理致をわかるようになるときの心理過程をいう。悟りも理解の範疇に入る。理解の部分集合が悟りである。すなわち、有為法次元の悟りを理解といい、無為法次元の理解を悟りとする程度に受け取るのががよい。理解になろう悟りになろう、すべての感覚、認知過程 (触) には、それ相応する感じ (受) が起こる法則により、感じ随伴するしかないということを知らねばならない。理解があるときや悟りがあるときには、それに相応して起こる感じに心が留まらなければならないのである。
頓忘だけとってみても、今ここに目覚めてい意識を意識するとき、これに相応するほのかな平和感を読み取ることができ、我空法空を納得するときに無限に開かれた無限解脫感を読み取ることができる。さらには、現実をあるがままに受容するときに現前する如如感を読むことができる。そして、頓忘意識を意識する心理過程に相応する無限至福感というニルバーナをいくらでも経験することができる。それだけでなく、天下の無数の法理を、私たちの意識に迎え入れる時、それ相応する感じを無視するということはまったくもって愚かさ極まりないことである。重ねて言うが、すべて感覚 - 認知過程には、それに相応する感じが随伴という警句を忘れてはならない。理解や悟りは大脳の役割であるが、理解や悟りに相応する感じは胸の役割である。理解や悟りにとどまってしまうと、私たちのエネルギーは脳に集中して、ストレスを受けることになるが、理解や啓発に相応する感じに留意すると私たちの頭にあるエネルギーは体に降りてきて、深い休息をとるようになるのである。
(4) 感じ生活
感じに目を向けてこそ、人生をまっとうに生きるということを分かったなら、感じ生活をするのである。それでは、どのように感じ生活をするのか。まず、日常で自分の感じに留意し、それを表現する。これが感じ生活の一段階である。そして、その感じを互いに分かち合い、相手の感じに共感してあげる。これが、感じ生活の二段階である。そして最後に、燭台から炎を引き起こすフィルタ (filter) を矯正して、いっそう至高な感じ生活をする。これが修心の段階である。この三段階が心の学びの全てと言ってもいいだろう。
同事摂は、このような段階を踏んでいく第一歩として、感じ書きとめを勧めている。燭台 - 炎 (燭台は感じを起こした条件、炎は、その条件による感じ) 形式の「感じ録」を着実に書いていくと、自分の心が鉢の中の金魚のように明るく見えるはずだ。そうなれば、微細な感じにも気がつくようになり、否定的な感じもすぐ転換することができるようになる。すなわち、自プラ (自然なプラスの感じ) 、微プラ (微細なプラスの感じ) から、さらに一歩進んで意プラ (意図的なプラスの感じ) にまで発展さして、自分の感じを自らが自在に管理するようになるだろう。同事摂の 4 つの助波羅蜜と 1 つの主波羅蜜の繰り返し観行が、まさにこのような過程だとする。
すべての瞑想は、なんらかの次元の感覚認知過程であるから、必ず、その瞑想過程に感じがあるはず、その感じに留意し、感じてみる。瞑想がよくできていうるかどうかの絶対的基準の一つは、肯定的な感じの随伴にある。感受性が少しと鈍いとしても、繊細な感じに留意してみれば誰でも瞑想に随伴いる感じを感知するようになる。
2. 念体論
(1) 事実なのか、私の考えなのか
事実と念体を区別することは非常に重要である。いったん、、探求者は内外のすべてのもの、宇宙に存在するみなされるすべてを念体と見れば正しいだろう。意識圏の内であれこれする以前のすべての存在は、物自体であるにすぎず、超越者であり、無規定者であり、無であるとはできないが有であるともできない空なる何かにすぎない。
愚かな人は、自分で、そういう形、そのような色、それらの大きさを規定しておいて、それが実在として存在する思っている。これらの人をして素朴実在論者という。超越者は、受け入れる者の主観的感覚認知体系を通して現象として表れる。ところが、受け入れる者たちの主観的感覚認知体系が類似していることから、映り出される現象も類似してくる。だから、まるで客観的に存在する現実世界があるように経験されるのである。しかし、まともにわかってみるならば、その現実世界は結局の所 "事実" ではなく、受け入れる者の「事実念体」である。
したがって、素朴実在論者の範疇から抜け出した人々は、これまで事実と思われていた世界が事実ではなく、事実念体であるということに気づき、その事実念体の向こうにきちんと客観的な実在としてありそうな世界を徹底して気になり、恋しがるのである。カントがその代表的な人だが、カントは千辛萬苦の瞑想の末、その客観的な実在を物自体と名付け、「物自体は神の認知対象であるだけで、人間には不可知の超越者である」と宣言するに至ったのである。有神論者であったカントは、その物自体を神は認知することができるかのように考えたが、どうして神が認知することができるだろうか?神が認知したとすると、それはまたもや、神の主観的な感覚認知体系によって映し出された現象にすぎない。物自体は決してどんな何者の規定の網にかかることなく、ふたたび永遠の彼岸に退いてしまう。物自体は誰かの、その時、その状況の感覚認知体系ではそう映っているという、そのなにかということにすぎない。
儼然たる事実として思えていた目の前の山、後ろの山が「"事実 " ではなく "念体 (事実念体) " であるとするならば、他のものは言うまでもない。諸般の念体は事実念体、印象念体、信念念体、意志念体、欲求念体、感情念体程度に整理することができる。したがって、このような念体を事実視あるいは真理視して、自ら固着しては隣人と対立し、いさかいと戦争を起こしてはならないのである。探求者は、「真理、真理することなく、方便、方便とすべし」という警告を深く留意することである。この記事は、事実と念体に対し哲学的な論議をするためのものではない。ただ、自身の主観的感覚認知による表象物を「事実」であると執着しながら苦痛と戦争を呼び寄せることを防止する為に、念体論を方便として持ち出したにすぎない。
(2) 肯定念体、否定念体
念体とは、ひとまず、正見 (望ましい価値観) のような肯定念体と「ある - いい - たい - シャン - 不満」のような否定念体に分けることができる。肯定念体は、私たちの幸福解脱に助けをくれるので必要な存在だが、私たちを不幸せる否定念体は浄化しなければならない。
意識空間は自性空間と念体空間で構成されている。 (厳密に言えば自性もまた念体である。概念作用がなくて、純粋覚醒状態である自性も私たち意識内の現象なので、念体とするものである。ところが自性は、私たちにどのようなとらわれにもならないので、とらわれになる否定念体とは区別される。これは、いわゆる「無為念体」である。) ここでいう自性空間とは雲がかかっていない虚空のような心であり、念体空間とは虚空の中に入っているすべてのもの、太陽 - 月 - 星 - 雲などと同様の、さまざまな感じ念体、欲求念体、意志念体、信念念体、印象念体、事実念体などである。
無限の自性空間であるにもかかわらず、否定念体に執着して中毒し、残りの無限に開かれた自性空間を忘れて生きることが衆生 一般である。ここに、どのように無限に開かれた自性空間を自覚し、無限の開かれた心で生きるのかを問いかけ、答えなければならない。
まず、「否定念体 100 - 自性 0」のような真っ暗な状態にあったとしても、自性を信じるのが良い。あたかも、空一面に雲がいっぱいかかっていて、晴れ間が見えないとしても、雲の向こうには、スカッと開けた空があると信じるのと同じだ。次は、自性を直接経験しなければならない。まるで雲の晴れ間を通して、空を直接見るようなものだ。信解行證の信解をいう。最後には、自性経験が自在にならなければならない。
まったく、どうしたものか?べたべた真っ黒な否定念体をつけて生きるのか、捨てて生きるのか。死んでも消えることなく、吊るして背負って次の世まで引きずって行き、そやつらからさんざんいじめ -小は心配事や頭痛、腹痛、齒痛、腰痛から、大は八熱八寒の地獄まで - を被らなければならない。どうしたらいいのだろう。
(3) 念体整理
いったん、探求者は、自身の意識空間に漂っている念体に対し、自覚ないし整理することに敏捷でなければならない。
望ましい念体であっても、その念体を真理視することなく、方便視しなければならない。真理視すると執着エネルギーが生じたり、独善的態度が生じ、意識空間に痕跡を残し、痕跡を強化して解脱から遠ざかる。
方便視しても、ゆだんして目を覚ましていないと、意識に影を残して、解脱とは逆行する可能性がある。しかし、最後まで方便念体は不可避であり、方便念体をいかだに此岸から彼岸に渡っていくことになる。
貪瞋痴という望ましくない念体は、いうまでもなく徹底して浄化しなければならない。
しかし、浄化しなければなら貪瞋痴であっても、煩悩即菩提次元で貪瞋痴に対し抵抗エネルギーを持たないことで、意識空間に影を残さないのが賢明である。
(4) 念体消去
念体に對して観点定立を正しくすることで、知足瞑想、非我瞑想、ナジサ瞑想、死亡瞑想など、様々な取り組みで貪瞋痴浄化作業をする。同事摂では、念体消去のためのさまざまなツールがある。そのツールを使用して、念体を消去し、虚空に回帰する。消去するときの感じを吟味する。虚空に回帰するときもやはり、感じを吟味する。
3. 概念がどうして墜落なのか
(1) 概念とは?
第2章で説明した煩悩構造によると、人間の意識が貪瞋痴に染められる前を「概念以前」という。すなわち、概念が墜落の出発点ということである。概念とは国語辞典に出てくるすべての単語である。人が世の中を認識する方法の基礎が概念である。人が考えて言うことは、すべて概念を通してなされる。人間が自ら万物の霊長という地位に上がったのは、まさに概念 (言語) と呼ばれるツールを使用できる能力のおかげである。しかし、なぜ概念を墜落というのだろうか?
(2) 概念 (言語) の生得的限界
自然には概念がない。概念は人間が作り出した人工物である。そんな概念 (言語) は、生得的限界を持つ。その限界は、日常の中にもいくらでも現れる。私たちは言葉表現できない境遇をしばしば経験していないだろうか。しかし、そのようなわずかな不便はともかく、概念がまさに本質からの墜落であり、苦痛と戦争を招くということである。この言葉はただちに理解されないだろう。しかし、概念がまさに人間の実体思考を作り出す張本人であることを理解するならば、概念がまさに墜落であることを十分に納得することだろう。
恒常でなく、常に変化していく存在界は、そのどのような実体も存在しない無有定法の世界である。釈迦牟尼仏陀は菩提樹の下で縁起という存在法則を発見し、「私」という実体思考から抜け出し解脱し仏陀となられた。しかし、悟ることのできない凡夫は、最初の煩悩ごとである実体思考に陥ってながら、三世輪廻のわくの中をさまよわされる。実体思考と価値思考が同時的に発生し、つづいて貪欲と憤怒、そして不満思考につながって、一波万波の煩悩生活が始まるのである。
なにか対象を実体視するときは、2 つの誤謬を犯すことになる。まず、縁起的存在を全体存在界との関連の中でながめることなく、独立した存在であると考える誤謬である。第二に、絶えず変化するその存在を固定された存在であると考える誤謬である。対象ごとに固定した特定の名前を付ける概念ぐらしは、この実体思考をそのまま反映する。例えば、父母の存在なくして、子息の存在を想定することができないのに、概念は「父母と子息」を「父母」と「子息」という互いに分離された枠組みに確然と分けて置く。概念が、ひとかたまりの縁起的存在界に二分法を堅固に立てるのである。また、父母という存在も、子息という存在も絶えず変わっていくものなのに、概念は父母や子息という固定された名前で一歩も動かない。概念が無常な縁起的存在界に「常」をうち立てるのである。
そのように、母の腹の中で生まれ、概念を通して世の中に出る人間は、実体思考が骨の髄まで浸透し、執着心でこり固まったした生を送りながら、あらゆる不和をひき起こし、ついには戦争さえもはばかりなく、地獄生活をするようになるのである。
人間の概念は、ツールという側面で大きな発展である (浄化、解脱、疎通の方便としての概念) 。現実的にあまりにも必要な便宜物である概念が、大きく間違ったものではない。金剛経に数え切れないほど現れる「コップ即非コップ、是名コップ」という形式の言葉は、まさにそのことを引き出す言葉である。 「コップ即非コップ、是名コップ」という「コップはコップではなく、便宜上の目的でコップという」という意味である。便宜上付けられた名前だから必要とするときに呼んで使って、再度手放すといいものを、放さずに、その名前 (分別) を真理視し是非して、執着するのだから苦痛と戦争がついて来るしかないのである。
(3) 墜落から墜落以前に
墜落以前とは概念以前のことをいう。それは太虚であり、太初であり、イブが善悪知る果物を採って食べる前の世の中であり、無心であり、物自体であり、無念無相無住であり、無有定法であり、自性であり、如如であり、如来であり、実相であり、無為あり、無位である。人の意識はどのような存在に対して概念を選択し、「分別 - 是非 - 執着」を始める。分別是非執着の結果、人間は苦痛と戦争の地獄に落ちる。
概念化が苦痛の元祖であるということを納得することは、大きな悟りの一つである。仏教式的に言うならば苦聖諦と集聖諦の悟りである。ここに地獄である概念から離れ、概念以前に戻らなければならないという当為感を感させる。概念以前に帰るのが悟りであり、解脫であり、救いである。この論旨を納得する場合、これは解脱と救いの瑞光が射しているということを意味する。
ならば、概念以前とは何だろう?すなわち鉛筆という概念以前のその存在自体は何だろうか?答は簡単である。「鉛筆」ではなく、鉛筆として立ち至る「それ自体」である。結論から言えば、どんなものも「それ自体」 (自体、実相 : Ding an sich) は、そのいかなる方式によって規定されることがない、無有定法であり、無為の風光として現れ、人の解脱を決定し建ててくれる。凡夫は、ある対象を「鉛筆」であると概念化しながら、その「鉛筆」が「鉛筆自体」と信じている。そのような人を、西洋哲学の言葉を借りれば素朴実在論者という。ドイツで 12 年間カント (Kant) の「純粋理性批判」を硏究されたソドンイク (서동익) 敎授は「素朴実在論圈に住んでいる人は、虫と大差ない」と言われ、その言葉がずっと記憶に残っている。概念以前の経験をどうするかということは、別に扱うこととして、いったん、概念以前に帰るのが救いであり、解脱であるということ重ねがさね留意しすることである。
4. 空
(1) 空と色
ある対象は、眺める観点により、いつも多様な姿で現れる。経典の言葉で一水四見という法理がそれである。人の目には水に見えるのが、魚の眼には自分の家に見え、鬼の目には真っ赤な火に見え、天人の目には輝く水晶に見えるということである。ならば、どれが正しい観点なのか。正しいとすればすべてが正しく、間違っているとしたらすべてが間違っているのである。ここでの核心は、その観点が正しいかどうかではなく、そのような観点が、私たちの離苦得楽に役立つのか、役立たないのかである。したがって、苦痛を誘発させる観点に映った境界を色とし、解脱を誘発させる観点に映った境界を空とする。
空という観点に映った境界を見ると、「私」もなく「世の中」もない。すなわち、宇宙というガランと空いたものである。いや、こんなに見ることができて、聞くことができ、触れることができる「私」と「あなた」がないなんて、この世の中自体がないなんて、それはどのように納得できるのか。ところが、ここで「ない」というのは存在性を否定するものではなく、その存在の実体性を否定することだ。存在界は重重縁起の流れなので、そのどれも全体との関係を度外視して、ひとり独立的に存在することができないという意味である。それでは、私たちは、なぜそのように微妙で堅苦しい法理を学んで、理解しなければならないのか。細かい空の論旨に入る前に、その必要性から確実に認識しよう。
(2) なぜ空理を学ぶべきか?
空理と幸不幸 :
人生で最も大きな問題は、苦痛、すなわち不幸である。その苦痛から抜け出し幸福に至ること (離苦得楽) が人生の目的である。苦痛から抜け出すためには苦痛の原因を知る必要がある。苦痛の原因は、痴 、貪、瞋の三毒である。三毒の中でも痴 (愚かさ) は原因中の原因である。貪瞋痴が苦痛の祖先とするならば、その祖先中の痴は元祖格である。
痴は非常に広い概念である。しかし、愚かさの中の愚かさとして、娑婆世界のすべての苦痛を引き出す源泉的な愚かさがある。それが種子となり、無数の幹や枝を伸ばして葉を開き実を結んで、いろいろ億万の愚かさが絶えず生み出され、人は生きていくほどに、いっそう、その中に落ちこむ。人類史のすべての苦痛と戦争がなくなるためには、その源泉的な愚かさが除去される必要がある。その愚かさが何なのか考えよう。
それはまさに「私と世の中が<ない>のに、それを<ある>と思うこと」である。ほんとうにまっとうに幸福になりたいと望むなら、解脱しなければならず、解脱するためには「ない」ものを「ない」と正しく悟らなければならない。あきらかに「ある」とうかがえたとしても、よく思惟してみると「ない」というものだ。
人類のすべての文化文明、政治、経濟、教育、道徳等などは人生の苦痛を解決しようとする努力の結実である。しかし、そのような努力は、苦痛の暫定的解決や緩和、あるいは若干の人間的成熟をもたらすだけで、苦痛の根元まで抜き取ることができない。根はそのまま置いたまま病んだ葉に、枝の一つに、このような処方をしているのだ。もちろん、そのような作業も必要である。歯科に行って痛む歯を治療したり、経濟を起こし暮らしを豊かにしたり、教育を通して心を浄化させて苦痛を少し減らしたりすることも、それなりの意味がある。しかし、根本的な処方がない限り、苦痛はいつまでも持続するしかない。根の中の根まで完璧に引き抜く苦痛の根治薬材。それがまさに<ない>を取り扱う空思想である。空を通して完璧にすべての苦痛を根治することができるということ、これが仏教が人類史に提供できる最高の貢獻である。
(3) 方便として空
仏教のすべての教えは、その自体が真理であるために説かれているのではなく、離苦得楽の手段 (方便) になるので、意味を持つ。もちろん、空なので、空理はそれ自体が学問的な真理性を有していることを否定することはできないが、離苦得楽の決定的な方便であるため、仏教の広場では丁重にもてなしているのだ。方便として採用されている言葉が真理性を併せ持つ場合、もちろん、いいだろうが、真理でないとしても離苦得楽 (幸福解脱) の手段となるならば素晴らしい教えであり、法門である。主や客に対して分別 - 是非 - 執着を放下して、自由を経験させてくれる観点があるとするならば、どのような観点であろうとも空理であるのだ。
(4) 悟りと解脱感
重ねて伝えんとするのは、空理を理解することにより、なるほどそうだな!ないんだな!私、あなた、世の中が本来ないんだな!とする認識が確然となれば、境界に引き込まれていた拘束感が消えて、開かれた解脱感が感じられる。
解脱感という感じ!それは空理把持 (理解) の決定的な功徳ある。すべての感覚認知過程には、それに相応する感じが随伴される。経典では「感じ」の重要性があまり強調されているようには見えないが、経典の行間に留意してみると、その重要性は脈々と流れていることがわかる。多くの境遇、仏法の歷史は行間を露呈することで発展してきた。
行間には地域性と時代という限界を超えて、超地域、超歷史をあまねく滿足させることができる教えが含まれているものである。その地域、その時代に応える離苦得楽のための知恵を行間で発掘して露わにしてこそがまさに知恵宗師の仕事だった。そうすることによって、釈迦牟尼とはほとんど関係もないようにみえる言葉が如是我聞 を急いで、経典化されたものである。
空の理致を悟ったならば必ず、その悟りに伴う感じがあるもので、その感じに留意ししていないとしたら、まことに遺憾なことである。学問の遺憾はそこにある。感じに留意するか、しないかということが道と学の差異である。
(5) 一水四見
空
色という、苦痛を誘発させる観点に映った境界 (法 : 有為法)
空という、解脱を誘発させる観点に映った境界 (法 : 無為法)
名詞の空と形容詞の空
(6) いくつかの空理
縁起故空 : すべての存在は因縁により存在するので、空である。
天下のすべての存在が他のものと因縁を結ぶことによってのみ存在することができるのであるならば、どのような存在でも存在それ自体を実体とすることができない。すべての個体は縁起的存在であるため、非実体であり、無実我であり、無我、非我であり、空である。すなわち、存在界は、すべてがひとかたまりの有機体で、そのどの個体も縁起の尾を切ってひとり独立的に存在できない。
釈迦牟尼仏陀は、そのような存在法則に対して「これがあるのでそれがあり、これがないので、それがなく、これが起こるため、それが起こり、これが消えるので、それが消える (此有故彼有 此無故彼無 此起故彼起 此滅故彼滅) 」と言われた。
なんらかの存在を実体としてみるとき、それは分別 - 是非 - 執着の対象となるが、逆に非実体にみなしたならば、そのような対象になりえない。すなわち、前者の場合は執着による苦しみ沼に陥る可能性があることを意味し、後者の場合は執着するほどの対象が本来ないので、その可能性が源泉的に消える。
無常故空 : すべて存在するものは、恒常ではなく、瞬間瞬間変化するので空である。
実我を上程するときは我の固定性が前提になる。しかし、固定体がなく、刹那を前後して、刹那前の我は刹那後の我ではない場合は、「私」あるいは「それ」と指定されているいかなるものも、指定する者の不完全で主観的な錯覚にすぎず、固定された実体ではない。
ストーブの上の水滴は瞬間後に蒸発してしまうのに、その水滴が「私は水滴である」と自身の正体性を主張することができるだろうか。同じように、存在するすべてのものは水滴がほんの瞬間に蒸発してしまうように無常に変わるので、「その何!」と固定させて実体視することはできない。ただ愚かさのために、変化を変化として悟ることなく、固定された実体が持続すると思いこんでしまうのである。
微細な変化を識別する感知能力がある者の目で見れば、まったく「それ!」あるいは「私!」とすべき実体はないのだ。この繊細な感知能力こそ、まさに大きな知恵である。確然な悟りがないとしても、その理致は理解することができる。理解 (先悟、解悟) した後に、理解した状態を深く反復して瞑想するならば、悟りの水準に至るようになり、ついには宿劫に「私!」「私!」として生きてき痼疾的な我執から根本的に抜け出すことができるだろう。 「私は - 」としながら「すでにその<私>は変じて消えてしまっているので<私>とするに値するものはない」と何度も反復して吟味してみなさい。その際に感じられる、さっと障害物がなくなり開けた感じが解脱である。
念体故空 : 人が存在するとみなすすべてのものは、「実体」としてのいかなる「もの」でもはなく、結局、自分の念体すぎず、空である。
念体と感情念体 - 欲求念体 - 意志念体 - 信念念体 - 印象念体 - 事実念体程度に整理することができる。人がひっかかって倒れながら、不解脫を経験することのほとんどは、事実念体を実体視することから来る。いかなる事実も、自身の心の外にあるなにものかではなく、心の中にありながら「事実」として思わされる念体にすぎない。
したがって、ある対象であれ、どんな状況であれ、それは事実ではなく、事実念体 (事実であるかのようにうけとめられる念体) として、じっと観照してみると、その状況から自由になっていく感じを得るようになる。
5. 解悟解脫五要
解脫の5大要因
解脫を引き起こす5つの要素
解脱
6. 不可不幸5段階
不可不幸の5段階法理
本来気に障る理由がない5段階の理致
人生の目的は、いったん、3つの段階で話すことができる。最初の段階は不幸から抜け出すことであり、第二段階は幸福になることであり、第三段階は解脫することである。不幸から抜け出しさえすれば、不幸でなくなりさえすれば、次は自然に幸福であれ解脫であれなることだから、実は不幸から抜け出すことが、なすべきことの基礎であるだけでなく、なすことの全てといってさしつかえない。ところが本来気に障る理由がない複数段階の理致があるので、嬉しいことこの上ないというものだ。
なんなんだろうか。その5つの段階とは。
どんな問題も、順理通りに思惟すればよい。
1. 世の中 (世界) はない :
意識の門が開かれる。主客という世の中が見える。最初のボタンである。有か無か?「ある」はあるときちんと知るべきで、「ない」はないできちんと知るべきである。我空法空!縁起故空!破根顕空!波動故空!
2. 夢幻泡影 :
あるように見えても、一切有為法 如夢幻泡影 如霧亦如電である。宇宙も紅炉点雪なるところなのに、なにが正体を差し出すことができるだろうか。
3. 凡事感謝 :
価値あるかどうか吟味しても 99% 肯定であり、絶対肯定である。すべてが感謝である。天下が重重縁起だ。一つがよければ全体がいい。一つが感謝なら、全体が感謝だ。壇経の 36 対法が憶えているか。
4. 煩悩即菩提 :
あえて 1 %の問題点があるとしても、縁起的事情があるものである。豚の目には豚であり、仏陀の目には仏陀である。衆生の目には煩悩であり、仏陀の目には菩薩である。自分の心が天国ならば、天下が美しい。
5. 憐憫
これだけは断罪されなければならないとおもわれるときならば、ヘビが龍になることができるチャンスであることを知れ。断罪せんする場で、ただただすべきは抱いて、泣いてあげることである。
7. 問道 6 章
斷想 00. 問道六章
韓愈 : 師匠の三つの役割 = 問道 - 傳法 - 解惑
韓愈、柳宗元、歐陽修、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石
1. 世の中で最も貴重なのは? ---------生活
2. 生活を決定する核心要因は何か? ----価値観
3.人生の目的は何か? ----------幸福!
4.幸福とは何か? -------------- 感じ
5. 幸福の主体は誰か? ------- 私、私たち
6.人生の窮極の目的は何か? ------すべての幸福
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