解悟主義

さとりとは理解することである。理解もさとりも、ともにその目的語がある。卽ち、「なにかを」理解してさとることである。

すべての感覺、認知過程には、それに相應する感じが伴うと十二緣起說は説く。十二緣起の 6 ~ 7 番目である觸受構造論について述べる。感覺とは觸であり、感覺に相應する感じとは受である。感覺(觸)には六つ種類がある。すなわち、六觸(六觸: 眼觸, 耳觸, 鼻觸, 舌觸, 意觸)である。これは、眼耳鼻舌身意と色聲香味觸法が出会う過程のことをいう。ここにおいて、意と法の出会い(觸)に注目していただきたい。色聲香味觸という 5 境の存在は心の外にあるが、法という第 6 境の存在は心の中にある觀念である。目に見えるお母さんは色境であるが、目をつぶっても心に浮かぶお母さんは法境である。このくだりでは法境に注目していただきたい。この法境に二種類ある。有爲法境と無爲法境である。前者はわたしたちのこころのうちにやたらに浮かんでくるすべての觀念であり、後者の無爲法境は頓法といい、これがまさしくさとりであるという理解の目的語なのである。

この頓法(無爲法)は、見て、聞いて、触ることができるものではなく、深く考え(わかり, 認知, 思惟, 思索)しなければ捉えることのできないものである。<感覺,認知過程>

というときの認知過程とはまさに「考えること、わかること、思惟,思索など」である。認知過程を通じて頓法を捉えるときがさとった、道通したというのである。

では、考えること(思惟、思索)を通じて理解された(さとれた)この頓法(無爲法)を、意が觸すると觸受の理致より覺受を經驗すること、この經驗の心理過程を解脫であり、ニルヴァーナであるのだ。

修定主義、苦行主義等とうの修行を徹頭徹尾に經驗したあとに、これは生死解脫の道ではないと宣言し、菩提樹下にたどり着いたシッダルタ修行者は、思惟という新しい道を開拓したのであり、この道における思惟、思惟、思惟の末に緣起という頓法をさとることにより(理解することにより)解脫を經驗するに至ったのである。これが解悟主義の道だ。

理性が

思惟をし

頓法(緣起法, 無我, 空, 中道等)を理解することにより

解脫(ニルヴァーナ)を經驗することが

解悟主義 学びの道である。

このあたりを明瞭簡單適切に考えを整理してしまおうとこころに決めていただが、考えを整理できて、すっきり、うれしい。